2021年09月04日
新刊
私は普段さまざまな呼び方をされてますが,それは全ては私のことです。当たり前ですが。
さまざまな呼び方をされる場合、それぞれに立場と顔があり、荻野伸也という人間の印象も相手の立場によって様々となるはずですし、私自身も自然と使い分けてます。
スタッフからは嫌われてるでしょうし、お客さんには変態シェフ,子供からは天パーお父さん、取引先からは使い勝手いい奴で、オレンジページではイケメン先生でしょう。私もそれをある意味で演じてます。
うちの親父は校長まで勤めて勲章までもらった偉い先生らしいですが,私にとっては麻雀狂いで酒好き、お湯も沸かせない亭主関白で母親想いの親父です。
これを著者は個人をさらに細かく分けた分人主義と呼んでいます。分人を見ていくことでその多面性を反映した立体的な人物像が立ち上がり、濁った水も清流も合わせた一本の川こそが人間であると理解できます。
料理で言えば、レストランならばフランス料理人ですし、ターブルならば惣菜を作り、家では子供のために米粉でパンを焼き、実家に行けば寿司を作り、賄いで青椒肉絲をつくりますが、自分のための食事は毎回うどんな私ということです。
それぞれにはそれぞれの理由があるからこそ、最適な選択をしているのですが、一方で本心の赴くままに自由にやって良いと言われたら私は一体何を作るのだろうか、という問いをつきけるのが本書です。
店や会社をやっていくために利益を出さねばなければいけませんが、そうした大人の事情とも言える制約を取り払った場合、自分はどんな人にどんな料理を作り、何を表現したいのだろうと考え、そしてやはりここ何年か考えていた同じ答えに辿り着きました。
この話はまたの機会に。
前作の”ある男”は、死んだ恋人が実は偽名だったというストーリーからモロに分人主義を表現しました。
今回の作品はさらに一歩踏み込んで、十分生きた、と話す母親は自分の死をデザインできる自由死を選択しますが,自由死する前に不慮の事故で亡くなります。
主人公は亡くなった母のバーチャルフィギュアを作り、母親という個人の客観性、他者性に向き合い、母が自由死を選んだ本心を探り、母が死ぬまで隠した自分の秘密を知り、咀嚼することで少しづつ大人になり、自立していきます。
作品にはさまざまな社会的な問題提起が散りばめられており、登場人物と社会問題がリンクする形で話が展開していきます。
社会的弱者の経済的理由や、時代から自由死が賛美され、そのプレッシャーによって母は死を選択したのではないか?
しかし、社会や環境に影響されない自由意志や本心などありえるのだろうか。
死が自己決定できる近未来において、自然死ではないその選択の本心を想像する事の残酷さは遺された者に永遠の悔恨を植え付けるのでしょう。
しかし私は思うのです、あらゆる人は死ぬ瞬間まで何かしらの未練を残すものではないかと。
人間とは死ぬ間際まで未完成であり、未完成のまま死んでいくのではないかと。
一方で誰かの死とは死んだ本人にとってあまり意味をなさず、どこまでいっても遺された周囲の人々にとっての問題なのだと思います。