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2021年08月31日

更新

 

 

さて、早いもので私も更新をしなければいけない時期になりました。

 

今回初めての更新です。

 

取得時とほぼ同じような膨大な手続きがあり、かなりゲンナリ。

更新というより再取得に近い。

公安はそこまでして持たせたくないんですねって感じです。

包丁でもバットでも持つ人によっては凶器になり得るはずですがね。

そういう屁理屈言っても役所は役所。

今年からクロスボウも許認可制になるため、結構ピリついてます。

 

 

今年は忙しくて狩猟に行けるのか非常に怪しく、こりゃ年明けに期待か。

いっその事、罠師と連携して、かかった獣のトドメだけ刺しに行くというズルい事も頭の片隅では考えておりますが、それでも良いような気もします。

 

わざわざ手を汚し、簡単に安くスーパーで買える食肉をわざわざ山に行ってわざわざ不快な気持ちになりながら獲る事に意味なんてありません。

私は決して楽しんでるわけでも自己陶酔でもなく、どちらかというと山に鉄砲持って行くのは気が重く、鹿に出会わない方がホッとするという矛盾は所詮、狩猟採集ごっこの域をでないからです。

阿仁マタギ衆みたいに鹿やうさぎを獲らないと今夜のオカズがありませんよ、というところまで自分を追い込まなければ命を食べて命を繋ぐという意味を現代人の私は理解はできないのでしょう。

私が撃たなくても鹿はいつか死に、その場で捨ててきたとしても微生物や他の動物が綺麗に食べて最終的には土に還るわけで、運び切れない部位を山に遺棄することが悪いとも言いきれませんが、無駄なく食べる努力をする事でカタルシスを得ることくらいしか納得する術を持たないのかもしれません。

命を粗末にしたくないとか自然に優しくというのは裏返せば何かしらの保護を唱えた瞬間こそが西洋的人間中心主義の最たるものであって、鹿やイノシシが増えようが温暖化や化石燃料の奪い合いで人間が絶滅しようが自然は無関心に続いていくのもだと思います。

 

イルカやクジラ漁が批判されようとも、現地ではクジラは神として神社に祀られており、輪廻転生し、また自分達の元にきてくれる事を祈った日本人独特のアニミズムの思想や儀式は西洋的に理解するのは難しく、説明する言葉も持っていません。

マタギは熊を解体する前にはケボカイという儀式を行い呪文を唱え、全国の屠畜場には豚や牛の鎮魂碑があり、生き物だけではないあらゆるものに供養塔を建てる文化は世界中探しても日本だけです。

西洋的な動物愛護思想やビーガンに対する違和感や溝というのはその辺りにあるのだと思います。

 

 

いつか、昔のアイヌ民族みたいにナイフだけを持って山に入り、食べ物を現地調達して長期の山行をして、遭難して死んだと思われた半年後とかにひょっこり出てきたい。

それが出来れば理論上はいつまでも山を彷徨うことが可能になり、現代において最も原始人に近づけます。

原始人に近づき、飢えることで命を食べて命をつなぐことの意味や始原が見えると思いますが,飽食の日本ではそれすらも難しいという豊かなジレンマ。

 

忘れられないのは以前、山梨で親子の鹿に出会い、肉を多く取れる母鹿か、肉は少ないけれど柔らかくて旨そうな小鹿を撃つべきか迷った挙句、子供の鹿を撃ちました。

逃げた母鹿が遠くでピャーといつまでも鳴いていたのは、離れた子を探して泣いているのか、それとも泣いて私を責めているのか。

 

食うとは非常に宗教的で、狩猟とは非常に哲学的な行為です。