2021年05月09日
シビれた〜
湘南ティーサイトの主催でトークイベントがありました。
“給食の歴史”や”分解の哲学”、”ナチスのキッチン”など、農と食の歴史を研究されている藤原辰史さんと、”大洪水の前に”や”人新世の資本論”などマルクス研究されている斎藤幸平さんのガチンコトークです。
今回、藤原さんが新刊、農の原理の史的研究という本を出されるタイミングでお二人の対談が実現しました。
こりゃ、聞かねえ訳にはいかん、と。
この新刊はかなり分厚くて難解な読み応え抜群の農業史研究で、私は未読ですが是非とも買いたいと楽しみに思っている一冊です。
藤原さんの著書はほぼぜんぶ読みましたが、毎回新しい思考を与えてくれるメンターです。近著である縁食論にはかなり感化され、今後私が本気でやりたいと思っていることに対して背中を押してくれるような言葉で溢れています。
今回のトークではお相手の斎藤さんがマルクス研究者という事で、成熟した消費社会の中で農業と食というものが資本主義に回収されてしまったことによる問題点への処方箋としてのマルクス論を考えます。
資本主義における農と食とは、大地から分離と農業の工業化、すなわちモノカルチャーを目指す事です。
しかし、農や食は経済学、数学的視点だけで解き明かせるものではなく、地震、台風や大雨、霜や大雪など予測不可能な自然環境と密接に関わるが故に工業化と貨幣変換が未だに難しく、成熟した資本主義社会の現在でも農や食は置き去りにされたままです。
気候変動への対策や動物倫理の観点から家畜生産を減らし、メタンなどの温室効果ガスの削減を達成しながらも安定的に食肉を得るアイデアとして、土を使わない植物工場などのフードテック、クリーンミートと呼ばれる培養肉が挙げられますが、それこそが決定的な人間の大地からの分離と、農と食の資本主義的な最終形なのでしょう。
同じく、SDG sの耳障りの良いフレーズも、貨幣で計れない環境価値や人道的な問題の資本主義化と言えるでしょう。
本当にそれでいいのでしょうか。
私はずっとこの事を考えてきました。
サステナブルとはツルツルピカピカな現代的な清潔感などではなく、もっとグチャグチャで荒々しく、皮がムケてて、中身が飛び出してて、臭気を発していて、汁が漏れてて、賑やかに虫が集ってて、グロテスクなネチャネチャのドロドロなモノで、生産者、消費者、分解者がグルグルとサイクルを無理なく回している状態こそがサステナブルなはずです。上手く回っている状態はある種の生態系とも言えるでしょう。
例えばレストランなどは全くサステナブルな存在ではなく、野菜を作るわけでも獣を肉にするわけでもなく、注文はメール一本でトラックが遠くから運んできて、ガスを燃やし、電気を使い、生ゴミはゴミ箱に入れて化石燃料で燃やし、対価として貨幣だけを得ているサステナブルとは対極にある存在です。
サステナブルな食環境サイクルとは何かを考えれば、レストランに存在意義はありません。
土を耕し野菜を作り、家畜は肉を生かし、フンと尿で土を肥やし、出来た季節もので料理を作り、残った端クズは微生物に分解してもらい、また土の栄養にしていくという50年前は当たり前にあった暮らしそのものですが、それぞれが専門化、細分化される事で、あらゆる要素が相互に作用して機能しているという根本的な事すらも意識しないまま、蓋をして無かった事にして育ってきてしまった。
こうした問題に対して晩年のマルクスが考えていたことはヒントになるのかもしれません。
家畜の餌も野菜も魚の餌も、大元を辿れば全て太陽エネルギーです。資本主義の最大の欠点は自然環境の価値を貨幣換算できないまま、今日まで来てしまったことではないでしょうか。
まあ、水に値段があるように、空気にも値段がつく日は遠くないような気がしますが。