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2020年10月20日

ツキノワグマ定食

今夜の家飯はツキノワグマ味噌煮定食でした。

上のチビがバフバフ言いながら食ってます。

前回の投稿を見てウチのオカンから、カワイイ孫に変なモノ食わせるな、ツキノワグマ弁当なんて持たせるな、とクレームが入りました。

あ?変なものだと?

肉とはスーパーで買うモノと考えれば、熊肉なんてゲテモノなのでしょう。

配合飼料とワクチンで安心安全に育てられた肉と、山の中で何食って育ったのもわからないような肉と比べればそう思うのもわかる気がします。

でも、魚は天然が良くて養殖がイマイチ、キノコは野生が最高、みたいな基準がありますが、肉は何故ゲテモノ扱いになるのでしょう。

関係ないですが私の天然パーマは天然なので魚やキノコと同じように考えれば、金持ちの道楽とも思える養殖パーマより格上のはずですが、天パーはゲテモノ扱いです。

魚は天然、野菜はオーガニック、キノコは野生が良しとされてツキノワグマや天然パーマはゲテモノなのは何故?

 

 

人は得体の知れないモノやコトに対して抵抗感をもち、予定不調和より予定調和、要するに誰かが美味しいよ、とか大丈夫だよ、という客観的な情報と結果を基に判断するのでしょう。

食ったことない肉を食って腹壊したり口に合わなかったら損した気分になるからです。

しかし、物事の本質とは実際に体験して痛い目にあったり感動したりした主体的な行動の過程にあるのだと思います。

だからこそ楽しく美しい。

ウチのチビは昔、マタギの友人宅に泊まった時、近所で獲って来た猪を食って、その圧倒的な猪パワーに負けたのか、盛大にリバースした事がありました。

おおお、やっぱ野生の肉ってスゲェな、3歳のガキが太刀打ち出来る様な甘っちょろいモノではないな、肉とはこうでなくてはイカンと感動しました。

長男はそれでも野生肉を嫌がることなく少しずつですが食えるようになってきました。

今年は箱根の鹿を沢山持って帰り、子供達の前で解体しよう。

ツキノワグマの肉は大人でも量は食べられません。臭みは全くなく旨いのですが、とにかく肉の味わいがパワフルで沢山食べられないのです。

長男は明日、幼稚園でツキノワグマ弁当を友達に披露するのが楽しみで仕方ないそうです。

 

 

そんなオカンから里芋が送られて来ました。

なにかと忙しくて畑に通えなくなった私の里芋は雑草の海に溺れて全滅。

早速、煮っ転がしです。

味付けは醤油、みりん、干し椎茸、そして熊の骨から取った出汁です。

 

里芋って作ることしなければ積極的に食べることのない食材だったと思います。

春に植えて半年以上も土の中に居ます。なかなか大きくならないし、除草や手入れが必要なので手間が掛かります。

サイズなんて揃うわけないし、六方剥きなんて勿体なくて出来ません。六方剥きが味が滲みやすいってアレ嘘で、ただの見た目の問題ですが、大変さをわかるが故に普通に剥いただけで私には美しい白肌です。

高知では茎も食べるようで、太いところを皮剥いてアク抜きして煮浸しにします。

結構旨いですよ。

 

 

 

 

 

2020年10月13日

ツキノワグマシチューとまた書評

今夜の晩飯は去年獲ったツキノワグマの赤ワイン煮込みでした。

いやー、旨かった。

肉の味が半端ないし、臭みゼロ。

まだ足が毛付きで2本残ってます。熊餃子でもやろうか。

 

明日のチビの弁当はツキノワグマ弁当なのかもしれません。日本でツキノワグマが弁当に入っている幼稚園児は、さすがにウチの子だけでしょう。

 

熊を煮込みながらタイムリーな本を読んでました。

結論から言うと、時間の無駄でした。

 

 

増えすぎた日本の野生動物達

 

というサブタイトルからも分かるように、人間中心の目線で終始書かれてます。

そもそも、野生動物の数なんて誰も把握できていません。増えただの減っただのの推測に基づいて対策を、〜かもしれない…〜の可能性が高い…などとテキトーに書かれても説得力ゼロです。

外来種についても終始悪者扱いですが、そもそも固定種だって先祖を辿れば多くは外来種であって気候風土に適合したものだけが現代に生き残っているだけの話。

人間だって最初はアフリカからの外来種です。

もちろん、農業されている方々の獣害に対する悔しさは相当なものですが、だからといって野生動物を絶滅させればいいのかといえば、そんな事は出来ません。

自然や野生というのは、人間に制御できない大きなモノ、と定義すればわかるはずです。

大きな自然現象で言えば、例えば台風の被害を減らすための対策は出来ても最後は祈ることくらいしか人間には出来ないということを認めるべきです。

 

 

一度、彼らの気持ちになって考えてみると新しい発見があると思うんですよね。

 

いやいや、獣害とか有害駆除とかおっしゃいますが、生態系破壊や環境破壊の1番の原因は俺たち鹿でも、奴ら猪達でもないと思うんスよ。

地球上で増えまくって、治せないクセに山でも海でも壊しまくってる有害生物を教えますから、そっちをドンドン駆除してもらえませんかね、旦那。

 

と、日本語でシカに話しかけられたら私はなんと答えれば良いのでしょうか。

2020年10月12日

またまた新刊紹介

書評ブログみたいになってますが、今回は食品ロスの専門家、井出留美さんの新刊です。

井出さんは私の活動を最初の頃からご存知で、知り合う前から様々な講演会でネタにしてくれていた事を後にご本人から知らされました。

 

私自身、食品ロスという現象に対して業界の内側から見てきましたが、最近、自分が今まで悶々と考えていた事は全くのお門違いなんではないか、という今更そこに悩むんですか?という悩みに苛まれております。

狩猟を通して分かった当たり前の事に当たり前に気がついた僕ちゃんは大変賢い。

それはなにかと言うのは、また今度。

 

この本は食品ロスを軸にモノを大切にする事の楽しさや工夫する事の面白さを紹介しています。

私のことも少し書いてくれてまして、発売前に献本頂きました。

 

読んでいると清々しい気持ちになる本です。

 

 

 

 

 

 

 

2020年10月11日

久しぶりにオヌヌメ本

私は年間3万キロ車で走るので、一年でブレーキパッドが無くなります。

1ナンバーで毎年車検なのは面倒ですが、それはそれでいい事です。

山を走ってる途中でブレーキぶっ壊れたら、海千山千の私も流石に助かりません。

 

先日、お久しぶりに某氏からメールがあり、渡したいブツがあるから家に来てくれ、との事。

 

おおお、それは凄い。明日にも伺います、という事でゴーゴーとブレーキがヤバい音をさせる愛車で横浜某所へ。

この人は私の愛車以上にブレーキがぶっ壊れている人で、そもそもブレーキがないんではないか?という強烈な個性の持ち主。

そんな人の生き方に憧れて人伝に一緒お仕事させてもらい、それ以来のお付き合いです。

ブツと一緒にこの新刊を頂きました。

 

文明の利器を極限まで拒否し、なるべくズルをしないで山に登るというサバイバル登山という思想を体現している服部さん。

要するにテントもランプも時計もフリーズドライの食料やガスコンロも持たずに鉄砲と釣竿だけで何日も山で生き延びる方法論を確立しました。

それはただ単に軽く早くという昨今流行りのファストパッキングやウルトラライトなどのスマートなスタイルではなく、もっと泥臭くてウンコ臭い原始人的な登山なのです。

私は昔のアイヌの若者がそれぞれ山に入って自立生活し、1〜2年して死んだと思われた頃にヒョッコリ里に降りてきたという人獣的な側面に猛烈に憧れます。そういう意味では遭難というのは時間的制約上においての概念であり、時間がかかっても自力で降りられれば遭難とは言わないのでしょう。

 

そうした思想は登山中だけでなく、日常生活や子育て論にも容赦なく反映されているのが服部家のこのサバイバル家族なのです。

 

この本を、ぶっ飛んでる!と思うのならば現代文明に毒された家畜人間である事の証かも知れません。

世間体や常識が優先される日常生活において必要以上にブレーキを踏む回数が増え、キーキー唸っているのは私自身なのかもしれないと思うのでした。

 

2020年10月10日

本が出ます

お久しぶりです。

色んな方から生存確認が来てます。

お前、生きてるのか?と。

特に書くネタが無いのでブログ更新も出来ないので、いつのまにか放置してました。

この放置というのが、わたしから常連さんに対するある種のプレイだと解釈されるマゾヒストな方まで現れ、放置され過ぎてゾクゾクするとか?

 

さて、こんな時ですが、本の校正しております。

本を出します、ではなく、本が出ます。

私の本では無く、私が参加した本が出るので、本を出します、ではなく本が出ます、です。

来年初頭に某田書店さんから専門書です。

実はこの本、10年前にテーマ別に編集された本の再編集版で上下巻にまとめて再販されます。

2010年に撮った料理なので、料理的にマジダサい可能性があるので校正して欲しいと言われた時は、マジ勘弁して…と思いましたが、ゲラが送られてきて改めてルセット見てみると、なかなか良いじゃ無いか、結構わかってるじゃん、良い料理作ってんな、てかこの頃と比べて今の俺あんまり進化してねぇ、この頃の方が守りに入ってなくて非常に良いでは無いか、となると私はこの後の10年何をやっていたんだろう…

と、狼狽したのでした。

この本は私の単著ではなく、当時ブイブイ言わせていた料理人達が出版社から与えられたテーマに沿ってカブらないように料理を考えて撮影し、編集した物です。

コンフィ本、パイ料理本、パテ・テリーヌ本、フォアグラ本、煮込み本などなどです。

このシリーズに私は合計で31品を寄せてます。結構多いじゃん。

こうした共著というか他の料理人とのレシピ寄せ集め本を入れると数えきれません。その中でもこのシリーズはトータル2年くらいかけた記憶があり、この本を最後に共著は断り単著一本に絞って10年で7冊、もう出がらしです。

 

10年前と料理の本質的なところが変わってないと言うことは、今後も変わらないという事です。昔の料理見て恥ずかしくなる人も居るでしょうが、私は納得のいくものばかり。

それは良し悪しの話ではなく、料理人として固定されたということでしょう。

特にテリーヌなんかはファルスに使った肉の骨をグラスにしてファルスに練り込むあたりは今見ても良い仕事している。

大量生産には向かない細やかな仕事ですが、レストランシャルキュトリーとして旨いテリーヌを突き詰めたメソッドです。

シャルキュトリーはパティスリーと似ています。再現性に重点置きつつも、作り手のスキルや考え方が最終的に製品に反映されます。決まった分量と素材を使っても作り手によって圧倒的に味が変わります。

料理人の仕事はさらに属人性が高くなり、再現性は限りなく低くなります。私の料理は私にしか作れない、と言ってしまうと料理書を否定することになるのかもしれませんね。

大事なのは、各人のルセットを真似ることでは無く、ルセットを通して思想を知ること。

同じ山に登るにしても、どんなルートを登ったかには、そのクライマーの思想が反映されます。岩壁に描かれる美しいラインはどんな写真や言葉よりもはるかに多くを語りかけます。

ルセットにもその料理人の思想が反映され、なぜその操作をするのか、その素材に対してどういうアプローチするのかは料理人の試行錯誤の経験からくる思想の集合体で、YouTubeや講習会見ただけでは絶対わからない深い世界が料理書にはあるのです。

雑草と泡と石を使えばそれっぽくなるという様な薄っぺらい世界では無い。

こうした専門性の高い本にはその世界観を理解しルセットについてバチバチに議論できる編集者と専門出版社の存在が絶対に必要なのです。