2020年01月30日
セクシャリティとは
出張で仙台に向かってます。
その車内、やることないので先日の読書感想文。
とんでもない本で、1日で一気に読了。
久しぶりにどっぷりハマる読書体験でした。
アブノーマルとか、変態とか、フェティシズムとか色々呼び方あると思いますが、この本のテーマは破壊的に強烈。
動物性愛です。
獣姦ともいいますが、それはあくまでも日本語的な表現でその真相は曖昧、というかタブーとして無かったことになってます。
平たく言えば、究極の動物への愛の表現として動物との性行為を含む性的嗜好です。
人類学名的にはズーフィリア、略してズーです。
著者は20代の頃に壮絶なDVを受け、愛とは何かがわからなくなり、性行為の意味合いを単なる性器どうしの結合としか見出せなくなります。
人間としての自分を取り戻すために学術に取り組む決意をし、突き当たったテーマがズーでした。
日本でもLGBTが認知され、一定の理解はされつつも更なるマイノリティへと深く理解しようと当事者のいるドイツに向かいます。
そこで実際にズー達のコミュニティと生活を共にし、ペットではないパートナーとしての動物たちとの関係性を丁寧に紐解いていきます。
タブーとされるものは一般的には理解されがたい文化であるからこそタブーなのであり、その善悪を判断するのは一体なんなのか。
たまたま動物を愛しすぎてしまったのです。
私も犬に対して異常ともいえる愛を注いでいます。
ウチのウィーちゃんはペットではなく友達でもなく唯一の存在です。
実際に一緒に寝てましたし、夏場にほぼ全裸な私は元々全裸である犬と一緒に寝ている事を冷静に考えればオスの9歳とオスの41歳が抱き合って舐め合ってキンタマを揉みながら一晩を過ごしているわけです。
ドイツにあるズーのコミュニティには様々なズーがあり、必ずしも動物との性行為が前提としてあるわけではなく、肉体的にプラトニックな関係性でありながらも犬のことを妻と呼び、全てを妻のために捧げるズーも取り上げられています。
核心の性行為の形も様々で人間の男性がオスを愛するズー・ゲイや、メス同士のズー・レズビアン、ゲイも猫型とタチ型の2パターンがあるようです。
車椅子の女性がオスの大型犬との愛を育む例も紹介されます
人間を動物の一種として考えるとき、性欲という本能的生理現象は人間だけに備わっているものではなく、犬や馬にもあるものだとズーは考えます。
要するに彼らもその気になるのだと。
言葉を媒介しない関係性において、本当のところは誰にもわかりませんが、言葉がなければコミュニケーションとは成立しないのか。
言葉があることによるメリットもあれば、言葉がないことによる深い結びつきというものもあるように思います。
ウチの次男はまだ0歳。腹が減ったのか、ウンコしたいのか、眠いのか、
犬も散歩なのかゴハンなのか遊んで欲しいのかは言葉がなくてもわかります。
本能のままである乳児や動物は言葉がないから嘘をつきません。
ズーたちはパートナーの動物とペットをハッキリと分け、パートナーとなる動物には、本人にパーソナリティを見出し、そこには対等で平等な関係性を構築しようとします。
セクシャリティに善悪があるのか、という事は本質的ではなく、ズーとパートナーの動物は言葉もなく血縁もない別の種の動物でありながら、その結びつきは非常にピュアです。
ゲスト側なのかホスト側なのかという立場によって自分と相手を使い分け、相手が同じ人間なのに対等に扱うことが出来ないような大人が殆どの人間社会において、嘘のない純度100%の愛をくれる動物とズーとの存在がどういう位置づけなのかという点にセクシャリティはあまり関係がないように思います。
都市化が進むにつれて動物的では無くなってしまった人間は、別の種である犬や馬と愛情を注ぎ込んで動物的な本能を取り戻しているのかもしれません。
この本を読んで、世界観や景色がガラリと変わりました。