2020年01月10日
危険行為
どこやらの山、確か日光白根山あたりでは入山規制として、厳冬期の携帯型GPSを義務化したみたいですね。
それを持っていれば遭難したときにヘリが見つけやすいとの事。
それは素晴らしいではないか、という声が多数。
トレイルランニングレースでも必携装備とされているとか。
え?本気ですか?
何しに山に行くんですか?
しかも厳冬期ですよ。
遭難したときに見つけやすい事は確かに日本人の大好きな自己責任論からすれば歓迎すべき事なのでしょう。
もしもの時に見つけやすい、というのは一種の安心感です。
でも、その安心感て必要ですかね。
登山とは都市生活者の道楽です。自然に近い暮らしをする人に登山は必要ありません。
自然に近い暮らしというのは、動物的な暮らしです。そういう意味では出産してガチで子育てしているママさんに登山なんて必要ありません。子供って野生動物みたいな大自然そのものなので、わざわざ自分の野生感を確認するために登山や狩猟なんかしなくてもすぐ横に大自然があるからです。
私は子供が産めないから山にでも登って鹿か何か撃ち殺さないと野生を忘れたルサンチマン野郎になってしまうから仕方なく山に通うわけです。
登山がスポーツではないという点は審判がいない、という事に尽きます。
もしもの時に助けれもらう事を安心感として山に入る事は登山を汚します。登山を自由というコンテキストで語る場合、そんなGPSでトラッキングできることの価値が私にはわかりません。
登山における遭難とは、登山における自由と同じ地平にあり、予め設定されたゴールと帰るっぽい時刻があるから、それを大幅に遅れるから遭難になるだけであって、多少迷っても自力で帰ってこられれば遭難にはなりません。
どんなルートで登っても良いし、登頂しなくても良いし、登山道使わず岩壁を登ってもいい。
極論言えば、道に迷って帰るのを諦めたからこそ死ぬのであって、それは自由の範疇です。
どこで寝ても良いしウンコしても良いという圧倒的な自由を求めて登山するのに、ちょいヤバそうなら助けてもらえる安心感を携えて山に入る事に価値を感じるのは管理されるのが好きな現代人らしい選択なのでしょう。
私が考える最も美しい登山とは、山に入ったまま行方不明で1〜2年ほどしてみんなが忘れた頃に何食わぬ顔で極寒の山から降りて来るという完全な自活生活を山で半野生化して行っていた原初のアイヌ民族です。
そんな事ができる日本人は私の知る限り4人しか居ませんが、私は猛烈に憧れます。
前置きが長くなりましたが、たまたまウチの店がある本屋に行ったら、これまたとんでもない本に出会ってしまいました。
本屋って本当に危険な所で、読書とは危険極まりない行為なのです。
息子の鼻くそ掘りながら歩いていて、たまたま出会った本で人生変わってしまう可能性があるわけですから、GPS持って登山道をなぞるだけの肉体労働的ハイキングよりはよっぽど危険度が高い場所です。