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2019年12月08日

賄いの会話

だいたいいつもアツイ議論が繰り広げられます。

 

今日のお題は規格外海産物。

北海道のとある漁港では水揚げの75%が海に投げられます。

たった25%しか市場に出ません。

出さないからこそ価格が維持できているとも言えます。

また、別のある地域の海産物は目的の魚以外は二束三文なんだとか。

 

おいおい、これは事情は違えど捕獲の8割山に埋められているジビエと同じ図式じゃねぇか、という事で私がいつもの悪い癖で噛み付いて白熱。

噛み付いている相手ってのが一体何なのかは自分でも毎回わかりませんが、とにかく世の中の不条理に対していつも怒っております。

野菜も魚も出荷できないという食品ロスはそれはそれは大量です。

カウントされてないので正確なデータはありません。

イタリアやフランスではこうした田畑でのロスもカウントされており、それらを有効活用する事になってますが、日本では物流、小売、飲食店などの二次、三次産業と家庭しか意識されません。

これは大きな違いです。

なぜなら、食べ物には必ず生産者がいて、生産者の段階で廃棄が大量に出ても、その痛みや悲しみを受け止める人は生産者本人しかいません。誰も知らないし、蓋をして無かったことになってます。

彼らが出荷する時にすでに規格で選抜されており、選抜されたものが運ばれ、並べられ、売られ、売れ残った作物がさらに廃棄されていく。

近代的分業が最終段階まで来ている成熟しきった消費社会の日本で、苦労して出荷した食べ物を、金で買っただけの人達が勝手な事情で捨てているのを生産者が見たらどう思うのでしょうか。

私たち料理人にしても、カネで素材を買ってきてチマッと手を加えたあと、元の値段の3倍で売っている錬金術師かイカサマ野郎と言われても仕方ない。

 

カネとはそうした数値化出来ない苦労や経験値と本質的に等価となり得るのか。

買う事で失くしたものの大きさを今こそ知るべきではないのか。

お互いが見えてないから、見えないようになっているからこそ、大量廃棄しても涼しい顔でいられるのではないだろうか。

私も野菜を作る側の人間としての視点を獲得し、景色がガラリと変わりました。

私たち都市の料理人は生産者に対して恥ずかしい仕事をしていない、と言えるだろうか。

 

 

家畜とは少し性格が違って、ジビエも海産物もざっくり言えば誰かが育てたものでなく、海の資源で山の資源です。

野菜や家畜も畑を食べている点については土からの資源、さらに遡ると水資源とも言えます。

 

最近、肉と野菜にかかりっきりでしたが魚に関しても昔シコシコやっていました。

しかし、魚業界は肉界隈同様に深いダークな世界が広がっており、一筋縄ではいかんのですが、一応昔から温めていたシャルキュトリー のようなアイデアがあるのです。

一発、やってみますか。

 

最初は誰にも相手にされなかったシャルキュトリー を10年本気でやって、デパ地下で無添加パテが買えるのが普通になり、食卓でパテを楽しんでもらえる風景を作れたと自負しています。

今では全国の飲食店様や小売店で扱ってもらって嬉しい限り。

最近は都内のレストランとかでもテイクアウトでシャルキュトリー やってますね。業界が盛り上がって食文化が豊かになるのはいいことです。

 

 

このブログを読んで、

おいおい、またまた何始めるんだ、ウチのシャチョーは…

と背筋が凍っているスタッフの顔を見るのが楽しみで仕方ない。