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2019年12月04日

雑感

何でもかんでもネコも杓子もオリンピック。

まるで関連のない事にまでオリンピックが理由として使われることには違和感しかありません。

私の業界、とはいえ飲食業界もそこそこ広いので具体的に言うと、特に製造小売業です。

私の場合、飲食業以外にも食肉製品製造業、惣菜業、仕出し、卸売、小売、冷凍食品、さらには狩猟に関連した食肉処理業や農産物という、食品産業の総合デパートみたいな事にいつの間にやらなってしまったので、これにはこの法律、この規制、この枠組み、ガイドラインというのがいろいろ面倒でなりません。

なぜか来年のオリンピックを機に包装食品に限って添付が義務付けられている成分表示に栄養表示が義務化されます。

包装食品というのは蓋がされた食品や密封された食品の事で、パックされてなければ不要という変な制度です。例えばうちの無添加テリーヌは色が変わるから真空にしてますが、発色剤ドバドバ入れていつまでも鮮やかな色したテリーヌの量り売りはその都度切る為にパックしてないので成分表示は必要ありません。どんな添加物をどれだけ使ってても開示する義務が無いのです。

蓋のあるパフェは必要ですが、蓋してないパフェには要りません。

 

 

栄養表示とはナトリウムが幾つでカロリーがナンボって話です。

これって必要ですか?

エンデュランス系スポーツの補給食に使うエナジージェルが合計何カロリーになるかはアスリートレベルでスポーツに取り組む人なら必要な数値でしょう。

例えばロングトライアスロンなら大体6000キロカロリーいるからどの程度のカロリーを1時間あたりに摂取すべきかを計算しますが、計算しても私が良い例でうまく行くことは難しい。そんなの計算してもはっきり言って無意味です。

一般のスーパーやデパ地下で売られる惣菜や食品に栄養表示が必要な人がどれだけいるんでしょう。

もちろん、持病で塩分や糖分に気を使わなければいけない人もいるでしょう。

そういう方々の為の制度設計ならば、全食品産業を対象にすべきですが、義務化されるのは包装食品だけです。

 

自分が食べるであろうカロリーを計算して太らないようにしたい、活動計など使って自分が燃やしたカロリーとのバランスを測りたいのは理解できますが、食事をする楽しみや新しい味わいに出会う喜びまで機械の数字を見ながら一喜一憂するんてしょうか。

食べるという行為すらもカロリーとして数値化され、はみ出したカロリーを消費するためにランニングしたりジムに行ったりする事が悪だとは思いませんが、どこか食べること自体がガソリンを補給するような、携帯に充電するような他人行儀で主体性のない危険性を感じます。

メタボだなんだってのは、簡単に考えればカロリー収支が黒字なら太るし、赤字なら痩せます。でも、そんな事考えて摂る食事って美味しいんですか?

人間なんてしっかり働いてしっかり食べてしっかり寝れば良いんです。

腹が減ったら好きなものを食う、これこそ根源的な生の歓びじゃないですか。食べたいけどカロリー高いから辞めるなんてナンセンスです。

それが難しい世の中なんてどうかしてます。

本来、自由であるはずの食べる行為が数値化され、管理され、規制されます。現代人は管理されるのが好きなのか?

こんな制度は言葉は悪いのですが、国民総家畜化計画のようです。

しかも、それが役所からのお達しでオリンピックに合わせてという何の脈略もないスジから発せられることに違和感しかありません。

 

料理通信イベント その3

オーガニックとは何か。

 

 

結論から言えば、

オーガニックとは他者への配慮と責任だと考えています。

無農薬や有機など農法の呼び名で通ってますが、農法の定義だけに収まらないと感じていたからです。

それは言い換えれば生き方であり思想です。

他者とは、土壌であり気候、河川や海洋であり、農家であり畜産家や漁師と猟師、食に関わる人や生態系と環境です。

食に関わらない人はいないので、人類全体の目指す方向性と言えます。

例えば農業について全てを把握している人がこの世にいないように、様々な要素が複雑に絡み合い、言うならば人間が生態系の一部に組み込まれるような生活や考え方をするべきだとするのがオーガニックだと思うのです。

イタリアスローフードの始祖であるカルロ・ペトリーニはオーガニックを

きれい、ただしい、おいしい

と定義しました。

きれいとは土壌を汚さず、河川や海に対しても綺麗な農作物や畜産物です。

ただしい食べ物とは、農家や畜産家、食に携わる人々が食べる人も含め互いにフェアであること。

おいしいとは、作物本来の力で育った味わいを殺すことのない味わいのこと。

時に現代の味覚には沿わないほどにワイルドな味わいを出す素材もあり、それらを進化の過程で火を与えられた人間の最初の文化活動である料理を通して調味調理し、素材の味を最大限引き出し、最大限楽しむこと。

 

オーガニックを考える事は人間関係や自然との付き合い方を考えるということではないでしょうか。

 

 

 

 

 

今のお前には鹿は獲れねぇ

マタギのオヤジさんに言われた一言がズッシリと心にのしかかっています。

 

お前は引き金を引くタイミングが遅いのだと。

それは迷いがあるからなのだそうです。

何に迷っているのかは自分で良く分かっています。

私に生き物を殺す権利があるかどうかです。

獣を殺したいと願う反面、家に帰れば家族としての犬が居る。

犬が死にそうな時は涙を流すくせに、マタギが獲った野ウサギや鹿は嬉々として料理しているという矛盾点に折り合いがつけられてないウチは鹿は獲れないそうです。

 

猟師の皆さんが動物に対して血も涙もない極悪非道なプレデターかといえば、家には猟犬の他に猫や馬がいたりします。

猟師は皆、動物好きです。

それらを殺して食べるということは考えない。

しかし、鉄砲を持って山に入れば一撃で致命傷を与えて肉を持ち帰ってきます。

 

ペットを食べ物として考えないことの反面、獣を殺して食べることへの善悪を真正面から考え、自分なりに肯定しなければ肉を獲ることも食べることも私には資格が無いとバッサリ斬られました。

 

自分の手を汚す事を忌避している時点で私はズルいのです。

生き物に対する感謝や礼儀として残さず食べるということで殺しが肯定されるのか。

論理が感情を超えることはなく、古来人間は相手の立場に立って物事を考える事で他の動物とは異なる発展を遂げたのではないかと思うようになりました。

獣は論理や本能を優先し、生きるために食べるを貫いてきました。

殺しに感情が邪魔をするのが人間なのかも知れません。

捕食動物に可哀想とか申し訳ないという感情が入り込む隙間はなく、無駄なく食べるという私なりの礼儀や建前など、鹿の内臓だけを食い散らかした熊の食べ方を見ればなんの意味もない事がよく分かります。

その惨状を見る度に、解体や料理は美しい行為なのだと思います。

こんなことを考えている時点で私は自然から遠く切り離されてしまったことを確認するのです。