2019年11月17日
恐ろしい…
落車の影響でドリルで頭に穴開けたTシェフに続き、T岡さんが自転車共々派手にポッキーされた様です。
ツールド沖縄を優勝した矢先の天国から地獄…
このブログがデスノートに思えてきました。
そんななか、空気を全く読むことなく前々から伺いたかった事をご両人に伺いました。
肘が当たるほどの密集した状態でスプリント50キロオーバーで走っている時の恐怖感はどんなものなのか
そしてその中で落車して重傷を負った場合、次のレースで心境的な変化、要するにビビってしまう事はないのか
という事です。
答えはご両人とも同じ。
自転車レースとは、そういうもんだな。
勝負どころで日和るくらいなら辞めるべきだ。
とのこと。
自転車の落車は自分にどれだけスキルや経験があったとしても前方で初心者や違うカテゴリーの選手が落車すれば避けようがありませんが、そういうものであろうし
ダウンヒルで70キロ出てる時に小石に乗り上げて吹っ飛んだり、ブレーキワイヤーが切れればあの世行きすらもそういう物だろう、と。
達観するとはこういうことか。
しかし、この恐怖感は普段私が経験している恐怖とは異質な気がします。
あの波に乗るのはまずいとか
打ち込んだハーケンがグラグラしているとか
この天気でこれ以上登ったらヤバイぞ、
とノッソリ忍び寄る月末の資金繰りの様な、負け将棋で詰め寄られて窒息しそうなアタフタした見苦しい恐怖感ですが、自転車はもっと鋭利で切れ味が良い刀で斬るか斬られるか、無様に負けるくらいなら喜んで斬られて候の武士道マインドがあるような気がします。
恐怖の形は違えど、敢えてそんなヤバイ事をするマインドの正体は一体なんなのか。
人間の力ではどうしようもない物や事
と、大自然を定義した場合、都市生活者である我々が一番身近で大自然的などうしようもない対象である自分の身体と心に向き合って純粋な恐怖や喜びを感じる為には、アプローチが違えど失いかけた動物としての身体性を取り戻す行為として自転車や登山やサーフィンというのはとても有効なのです。
もはやそれはスポーツを超えてその人の身体性を伴った表現行為であり、たとえ側からみて理解できない様な行為であっても、自分の全力で挑んで大怪我をしたり死んだりしたとしてもそれは祝福出来ることだと思うのです。
逆に現代では突然病気になったり事故したり、自転車や登山で命を燃やして危うく死ぬ様な目に遭うくらいでないと、積極的に生きているという実感が湧かないからなのかもしれません。