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2019年11月12日

体験が欠如している世代

圧倒的に現場での体験が欠如している世代が、団塊ジュニアの私たち世代です。

生まれた時から車もテレビもジャスコも一通りなんでもあって、どのように生きるか、という点においては

“積極的に生きている”というより、

“消極的に死んでない”という方がしっくり来るのです。

私達世代は自分自身の生の存在と手応えを確かめるために山に登ったり自転車漕いだり台風にサーフィンします。

生きているという手応えは自分で獲得したのもではなく、生まれた時にすでにあった文明から与えられた快適な生活に対して少し申し訳なさとやましさを感じ、かすかな疑問を持ちながら特に乾いた欲もないまま何故か料理人になりました。

そんな子供の頃からの当たり前に与えられた快適な環境を引きずったまま、憧れたヨーロッパの料理を大した体験もしないままに真似事をし、誰かのレシピに従い、ファックスで届いた誰かが育てた肉を使って、自分の表現と称する料理を作り続けた結果、私達世代の料理人が一体何を語れるようになったのだろう。

体験を失えば、それに付随する感覚や感情も失うことになり、そもそも体験という概念すらなければ命を奪うことすらしなくなり、命を食べている事まで忘れてしまう。

 

人間中心主義の中でオーガニックや海洋資源や動物愛護を体験の伴わない薄っぺらい言葉で語ったところで、環境問題の本質を突き詰めた先にどんな答えがあるのかは誰もがわかっているはずです。

 

私たちが生まれるはるか昔の漁師や猟師、農家は人間中心に物事を捉えられるほど文明の恩恵を受けておらず、天変地異に怯え、時に暴力的な自然環境の中で折り合いをつけながら生きてきたはずです。

言い換えれば、文明に毒されてないから、より自分の力で生きていたといえます。

より自分の力で山に登れば正しい手応えがあり、正しく食べることは手応えのある生き方につながるはず。

私が狩猟を考える時、生きることと殺す事の矛盾についてのヒントを得たのは、アイヌのイオマンテと宮沢賢治でした。

イオマンテは冬眠しているヒグマをかり、ヒグマを連れ帰って集落で2年ほど育てたあと、首を丸太に挟んで殺して集落全員で食べる儀式です。

この熊送りの儀礼は野蛮なのでしょうか。

野蛮と感じるのは、それが子熊であることではなく、自分たちで育てた動物を食べるという行為そのものにその本質が潜んでいる。

現代において、生き物を可愛がる事と殺して食べることは両立しない。

しかし、熊の頭以外の皮は服てし、内臓は薬とし、肉は食べ物として全てを無駄なく頂く事で神への感謝を捧げることとして殺しと生きるを肯定します。

それは生き物と人間を境界線で仕切った上での建前論の共存関係ではなく、生き物無しには生きていくことが出来ないという止むに止まれない共生関係があるのです。

なめとこ山の小十郎は熊と対等の関係にありました。

現代は熊を殺さなくてもマツキヨとユニクロとハナマサに行けば全て揃ってしまう。

ペットと家畜は別の生き物で、ペットは家族で家畜は食べ物です。

 

私はそんな当たり前のタブーと常識を疑い、狩猟から料理をする事で

今、俺は生きている、

という体験してみたいのです。