2019年11月10日
私は
バカなので、自分の頭で考えて納得し、自分なりの言葉を見つけたからでないと、もしくは自分がこれってこうなんじゃねぇの?って言う仮説がなければ動けません。
大江健三郎が本の中で知り合いに諭す場面において
本読んだり、話を聞いたとしても、あらゆることに対して、自分なりの言葉を用意しておきたいんだよ
と言うような事を書いてました。
それを読んだ時、ああ、なるほどな、と。
今ではネットでなんでも知る事が出来ますが、それらを自分の経験から自分の言葉で語れる人が逆に今、どれだけいるだろうと考えるわけです。
フランス料理に関しても、本すらも読まずネットからシェフの動画まで出てきます。
そこには飛行機に乗ってわざわざ食べに行ったり、不法に働いて盗み見るようなウェットな感覚はなく、手軽にカジュアルにドライな世界が広がっています。
私が体験したフランスは、カラッとした気候とは裏腹にジットリした雰囲気がプンプンするウェットな場所で、日本人を中国の一部と考えるようなフランス人が珍しくない所でした。
祭りの日には名前を付けて飼っている羊を捕まえてこいと言われて捕まえ、作業台の角に頭をぶつけて失神させて解体し、焚き火で丸焼きにした事もあります。
名前をつけて残飯を食べさせる飼い羊を殺して食べるという行為に私は度肝を抜かれました。
しかし、食べるとはこういうことか、と理解した事でもあります。
日本で爺さんの爺さんの代には当たり前にあった光景はいつのまにか無かったことにされ、パックで買って料理することが当たり前になりました。
その分、生き物が食べ物になる瞬間は覆い隠され、蓋をされて無かったことになり、生き物は動物園で見るものであり、食べる動物はどこか別のところに居る何か、なのです。
私たち料理人も全く同じ、肉は獲りに行くものでも育てるものでもなく、ファックスで届くものなのです。
わざわざ狩猟免許取って生き物を殺しに行く理由はここにあります。
ジビエを店で出したいからではありません。
生き物を食べ物に変える行為は現代の日本では屠殺場で働くか、狩猟に出るかの二択しか残されていません。
もちろん、釣りや畑でもいいでしょう。生き物という点に於いては魚も野菜も生き物です。
しかし、同じ大型哺乳類をこちらの都合で殺す事はその行為の意味合いからして鋭利になります。
ここでずっと引っかかっていた問題にそろそろケリをつけなくてはならない時期になりました。
今月から狩猟期間に入るからです。
中途半端な気持ちで始めるつもりもなく、家族ともぶつかり、警察やお客さんから若干蔑むような目線で見られる機会も多くなりした。
だからこそ、自分なりに始める前と後に自分なりの言葉を持っておきたい。
リアルにいうならば、生き物を殺す前と、殺した後です。
自分の中にケリをつけて狩猟者としての言葉を編む時に立ちはだかる最大の壁、それは生き物に殺していいものといけないものの線引きは一体どんな意味を持つのだろうか、という事です。
先日、うちの飼い犬が瀕死の状態まで行きました。検査の結果は悪くなかったのですが、一時は早くて1ヶ月、長くても3ヶ月かもと宣告されたのです。
涙が止まらず、人前で大声で泣き、来るであろう絶望感に完全に打ちのめされたのです。
苦しみながら死ぬのならば、いっその事、この手で終わらせた方が犬にとっては幸せなのではないかと頭をかすめましたが、そんなことは当然出来ません。
私にとっての犬という存在は、これから殺しに行く鹿や猪と何が違うというのか。
私が狩猟に行くせいで、今この瞬間も野山を駆け回っている鹿が余計に死ぬことになります。
私にそんな権利があるのか?
人間社会として許認可は取れました。しかし、倫理的に私に生き物を殺す権利など、飽食の現代において存在しないはずです。
食べるものなんて捨てるほどあるからです。
頭数管理、森林保護、生態系の保全など人間中心主義的なこじつけならばいくらでもあります。
可哀想なペットを産まないために去勢させられた犬、育ち盛りのカルシウム不足のためにミルクを強制的に絞られ、枯れたらまた妊娠させられらる牛は、子孫を残す子を育むという生命の本能や存在意義すら無視した人間の歪んだ人間中心主義的倫理観は正しいのか。
その最先端の先っぽである動物愛護、動物倫理の精神からより良い環境を整えられた家畜たちは結局殺されて食べられるにも関わらずより幸せに死を迎えるのだろうか。
私に権利があるとするならば、義務とはなんなのか。
倫理学的に義務とは完全義務と不完全義務に分けられます。
完全義務とは義務を持つものに対応する権利がある場合に限られ、それがない場合は不完全義務と言うそうです。
例えるならば、約束を果たす義務がある場合は約束した相手に完全義務があり、慈善事業のような相手に権利が発生しない場合に不完全義務となります。
私が鹿や猪を尊重する義務があるならば、動物の権利と同値となります。
では、いつも通りに野山を駆け回り、繁殖することが獣の権利ならば、わたしにとっての獣を尊重する義務とは一体なんなのか。