2019年11月30日
そろそろ私の話した内容の追加、話したかったけど時間の都合で省いた話を書きます。
全身パタゴニアなのは宣伝ではなく、私が持ってる服は殆どがパタゴニアから泥だらけ、血塗れ、ウンコ塗れにするために支給されたものだからです。
新品のサンプルをカッコよく着て青山あたりで写真撮ってインスタにアップしてくれという事はあっても、ボロボロに汚して持ってきてくれと言うアパレルもなかなか珍しい。
逆に言えば、現代の人は服は汚れるという当たり前の事を嫌い、汚れないような生活を望んでいる。
しかし、汚れ仕事をする人はいつも見えないところに必ずいて、私たちが汚れなくても良いようにかわりに汚れてくれているのです。
いつもまっさらなコックコート着てる料理人を私は信用しません。
私はいつも汚れる側にいたいと思います。
この前日はほぼ徹夜でシャカリキに弁当作っていたので風呂に入れず、ウチの畑の堆肥みたいな臭いがしてますが、ウチのカミさん以外誰もアンタ堆肥臭いよ、とは教えてくれませんでした。
会場には案の定知り合いが多く、俺にはこんなに友人がいたんだな、と再認識。
そうした友人たちは飲食業界にありがちな仲良し共感クラブのような団体を作って群れることなく、自分の哲学を貫く孤高人ばかり。
自分の意思と置かれた環境で一体何ができるのかを突き詰めて考える人達です。
今回のイベントの内容は多岐に渡るので、一回では書ききれません。
料理通信の次号にもレポート載ると思いますがページの都合上、異物混入コンビがどの程度お伝えできるかわかりませんので、ここは自分の言葉で文字数関係なく書きたいと思います。
この日、自分の中での柱は3本。
畑、狩猟、オーガニックです。
次回からこの点について詳しく書かせて頂きます。
長くなります。
2019年11月29日
400人規模の会場はほぼ満員。
10年前にこういうイベントやっても満員にはならなかったと思います。
11時から小林武史さん、小林寛司さんの講演の後、14時からパタゴニアの近藤さんと私という異物混入コンビです。
パタゴニアの理念は先頃変わりまして
地球を救うためにビジネスを営む
ということ。
環境負荷の最小化やリサイクル、リユースという、現在の一般的なエコ思想に対して、かなりカウンターでパンクなパタゴニアらしい思想だと思います。
もちろんパタゴニアはこれまでも業界に先駆けてオーガニックコットンに切り替えたりフェアトレード、リサイクルポリエステルの実現など画期的な取り組みはありましたが、それは本質的にサステナブルではなく、お茶を濁しているだけだったと自己否定し、理念をよりストイックに変更したわけです。
サステナブルという標語みたいな言葉を国連やメディアが使い始めたことによって、これってサステナブルだよね、と目をキラキラさせて語る人は増やしましたが、その本当の意味と意義を理解している人はどれだけいるでしょうか。
地球上で増え過ぎた人間が何かすれば、そして何かを作れば必ず違う何かに負荷を生むということであり、それはブラジルで誰かが羽ばたけばアメリカでハリケーンが吹いて日本の桶屋が儲かるという事です。
去年の炭素排出量が過去最大、今世紀末には産業革命前より3.9℃上がると試算されてます。
プラストローをやめても電気自動車に変えてもサステナブルナンチャラという新しい食べ物を食べても単なる延命治療に過ぎません。
もはや、なにかを削減したり代替してどうにかなるフェーズではない。
パタゴニアの提案は対症延命療法から根本治療への移行として、今まで放出してしまった炭素を戻す仕組みを作り上げれば、やればやるほど地球が綺麗になるというのがそのロジックです。
ウチでも提供している炭素を地中に固定する多年草の麦から作るビール、海水をろ過するムール貝、昔ながらの選別漁法によるサーモンなどは持続可能性ではなく、環境再生型へのシフトを意味します。
それらが地球上の全ての人を養えるわけではありませんが、勝ち逃げしている先進国の私たちが選択すべきはお茶を濁すような生温いやり方ではなく環境再生型に未来を見つけるしか道はなさそうです。
私は火星に住みたいとは思いません。
2019年11月26日
弁当を300個以上作ります。
参加者はそれ以上に400人ほどいらしてくれるようです。
こりゃ、大変だぞ。
という事で、弁当の仕込みをしております。
さらに、明日は私の中間決算として今までの諸々の活動を通した考察を発表する機会をいただきました。
ここに書いてる時間も無いですし、まずは明日の限られた短い時間で私の言いたいことをご理解いただくための原稿を書きます。
明日が終わったらこのブログにて、当日は時間の都合で省いたことも含めて詳しく書きます。
2019年11月25日
12年間ありがとうございました。
この時間にまだ仕事してます。
それにしても、うちの店は干支がひと回りしてしまったようです。
28歳で店をやり、私も40歳ですのでそういう事なんですね。
皆様の愛に支えられてここまで来ることが出来ました。
ありがとうございました。
年内頑張ったら、年明けからリニューアルを考えてます。
その段取りのために現在は週末だけの営業なのです。
会社的な話ですが、近いウチに人事異動を大規模にやりまして、レストランのメンバーも変わります。
そんな感じでボチボチやってきますので、今後もよろしくお願いします。
2019年11月24日
皆様の愛を感じます。
國吉君もありがとう、後で電話します。
今回のメニューは私の大好物シリーズです。
赤ピーマンのムースは顎でトリュフを感じ、塩の替わりにキャビアで味をまとめる贅沢品。
フォアグラのテリーヌは説明不要ですね。
ブリオッシュと一緒に大きく切って口に放り込んで体温で溶けていくときのフォアグラの香りに悶絶してください。
ヒラメはトランペットと合わせるという、ランスのジェラール・ボワイエの得意な組み合わせ。
それを今回はフェルナンポワン風にしました。
メイン、これが実はなかなか深い料理でして、写実的料理として地方に食材を頼るパリを中心に流行った料理です。
鹿肉のようにマリナードキュイに1週間漬け込んだ牛ヒレは鹿肉を軽々と飛び越える赤ワインと香味野菜の風味を纏って馥郁として豊潤な深みが出ます。
鹿肉を使わなくても野性的な味わいに肉薄する仕上がりとなります。
これこそがフランス料理の真骨頂、手をかける事で素材に新しい側面の魅力を付加し、元々モデルとなった料理を凌駕します。
しかし、これは本来の鹿肉のポワヴラードを食べ込んでいる舌に対してアプローチしなければ、そのユニークな味わいは理解されません。
ロッシーニやマリアカラスみたいな誰が食べてもムヒョーウメェーっていう分かりやすい美味しさとは完全に一線引いたマニアック極まりない料理なのです。
優れた絵画に説明が要らないように、優れた料理芸術には説明は不要です。
しかしヘタレで自信のない私は、こうなんですよ、ああなんですよね、実はコレはアレなんです、と講釈つけないと不安で仕方がないのです。
周年ディナーのような、ウチの店でコテコテの料理を食べ込んでいる常連さんでなければ理解していただけないと思い、今回のメインは鹿肉のように調理した牛フィレのポワヴラードとしました。
ソースは肉を漬け込んだ野菜と屑肉、スジ、赤ワインをじっくりと煮出し、コンソメとフォンを注いで丸一日煮出したものを静かに煮詰めたモノです。
仕上げに酢と砂糖、胡椒を煮詰め、さらに赤ワインをギリギリまで煮詰めたガストリックというものを加えたソースです。
見た目は地味なのですが、恐ろしく手間と時間がかかっている料理なのです。
デザートは小田原で自然養鶏やっている壇上さんのレモングラスをだっぷりと使ったプリンとソルベです。
ハーブはドライよりもフレッシュ派なので、生き生きとしたハーブの香りを最大限に発揮した仕上がりです。
今日も楽しみです。
2019年11月22日
先日、仕事の件でパタゴニアの本社に行ってました。
帰り際、別の部署のイケメンお兄さんに呼ばれて
youは料理と畑と狩猟をやっているそうだな
は、はい。まだヘタレですが…
そうか、ならばこのパタゴニアの新しいラインであるワークウェアシリーズの実験台にはもってこいだな。
よし、youこれを着て仕事しろ。そしてyou、定期的に画像と一緒に報告しろ。
え、あ、はい、かしこまりました。
という事で、安くはないパタゴニアの新シリーズ、ワークウエアを使い倒して着倒してその具合を確かめる大役を仰せつかりました。
https://www.patagonia.jp/workwear.html
要するに、私のようなゴリゴリのブルーカラー向けのシリーズをとにかく使い倒すために、この服を泥まみれ、血塗れ、ウンコまみれにすることが私の仕事です。
私のウンコまみれのオーバーオールや血塗れのジージャン、泥だらけのワークパンツが額に入れて飾られるかも知れません。
パタゴニアのオフィスの日焼けした皆さんはボロボロのシャツや穴の開いた短パン、使い込んだビーサンなどを誇らしげに、俺はこんなにモノを大事にしてるんだぞと言わんばかりに着て普通にミーティングしてました。
いやー、素晴らしい会社です。こういう価値観に私はシビれますね。
私も見習って血塗れのエプロンで仕事しなくては。
2019年11月20日
周年ディナー用のフォアグラです。
ペリゴールの最高級品です。
バロティーヌにしてみたり鶏むねで挟んでみたりしましたが、今年はど直球でフォアグラオンリーでいきます。
脳天にズドンとくるフォアグラの旨味を感じてください。
当日はこれに大量のトリュフとブリオッシュだけ。
こういうテリーヌを食べさせる店がまだあるのかどうかわかりませんが、余計なものすべてを削ぎ落として最後の最後に残るものというのが完璧な料理なのだと思います。
他の要素が無い分、素材の質と作り手の質が問われます。
久々にやりますかー。
そんな簡単に獲れたらつまらないですわ。
山梨県にて狩猟登録し、本日最初の狩猟でした。
ここは鹿牧場だぜ、との地元の情報を元に勝沼から少し入った山域にて単独猟です。
大物猟は巻狩りと言って、猟犬使った追い込みが一般的ですが平日の今日はメンバーが足りない。
待ち伏せ猟は人数が多いと気配に気付かれるので(業界用語で気取られると言います)牧場並みにウヨウヨいる山域を手分けして待ち伏せすることに。
どの山かは縄張りの関係から言えません。
牧場と呼ばれるだけあって足跡や獣道(業界用語で足跡はアシ、獣道はウツと言います)があるわあるわ。
さっきウンコしましたって感じのホヤホヤの湯気が出てるような新しいものもそこかしこ。
こりゃ期待できるぞ、今日は鹿刺身ぱーてぃーだな、うへへへ、なんて言いながら持ち場に入って周囲を警戒。
オヌヌメされた山域の道のない南斜面、杉の森をゆっくり歩いているとパキパキっと小枝を踏む音。
来た!
と、声に出さずにポケットからスラッグ弾というライフルみたいな1発弾を三発装填。
これ、一発250円します。
こちらには気がついてない。
距離は40m
ちょっと遠い。
もう少し引き付けて…
なかなか動かない。
ノソノソと斜面をトラバースしてくる二頭の親子鹿。
申し訳ないけど美味しそうな小鹿に照星を合わせる。
木が邪魔。
むううう、まだ、遠い。
撃つか、辞めとくか
小鹿と目が合いました。
気取られたか?!
ドン!!
逃げられた…
当たったかもしれないので、鹿がいた斜面に確認に行き、血が落ちてないか入念に探索。
ないか…外れたな。
惜しいけれど、ちょっとホッとしました。
殺さずに済んだ、と。
まだ私は狩猟者にはなりきれてないようです。
登山と狩猟の違いとは、登山は森林限界超えたあたり、クライミングであれば取り付きから1ピッチ登ってからが本番、という感じですが、狩猟の場合は山に入った瞬間から緊張感MAXであることです。
なんてことない藪や道のない沢や尾根にも、獲物の影を探し、獣の気配にアンテナを立てます。
人間の踏み跡ではなく、獣が通った痕跡を探し、獣の気持ちになって山を見る。
ピークハントやクライミングのグレードばかりみてきた私には、これまでなかった感覚。
あるハンター曰く、
自分が山にとって異質であってはならない
山と一体化しなければ獲物は得られない
狩猟に於いて、最も必要なスキルとは射撃でもなく山岳技術でもありません。
どれだけ獣に遭遇する確率を増やせるか、が全てです。
その為にどうすればいいのか、わたしにはまだわかりません。
山域なのか、待ち伏せの場所なのか、地形の読み方なのか、獣臭出るまで風呂に入らずシーズン中は洗濯もせず禁酒禁煙するハンターも居ます。
山と一体化するということの本質は自分で考える事なのでしょう。
私はとんでも無く面白い世界に足を突っ込んだみたいです。
2019年11月17日
落車の影響でドリルで頭に穴開けたTシェフに続き、T岡さんが自転車共々派手にポッキーされた様です。
ツールド沖縄を優勝した矢先の天国から地獄…
このブログがデスノートに思えてきました。
そんななか、空気を全く読むことなく前々から伺いたかった事をご両人に伺いました。
肘が当たるほどの密集した状態でスプリント50キロオーバーで走っている時の恐怖感はどんなものなのか
そしてその中で落車して重傷を負った場合、次のレースで心境的な変化、要するにビビってしまう事はないのか
という事です。
答えはご両人とも同じ。
自転車レースとは、そういうもんだな。
勝負どころで日和るくらいなら辞めるべきだ。
とのこと。
自転車の落車は自分にどれだけスキルや経験があったとしても前方で初心者や違うカテゴリーの選手が落車すれば避けようがありませんが、そういうものであろうし
ダウンヒルで70キロ出てる時に小石に乗り上げて吹っ飛んだり、ブレーキワイヤーが切れればあの世行きすらもそういう物だろう、と。
達観するとはこういうことか。
しかし、この恐怖感は普段私が経験している恐怖とは異質な気がします。
あの波に乗るのはまずいとか
打ち込んだハーケンがグラグラしているとか
この天気でこれ以上登ったらヤバイぞ、
とノッソリ忍び寄る月末の資金繰りの様な、負け将棋で詰め寄られて窒息しそうなアタフタした見苦しい恐怖感ですが、自転車はもっと鋭利で切れ味が良い刀で斬るか斬られるか、無様に負けるくらいなら喜んで斬られて候の武士道マインドがあるような気がします。
恐怖の形は違えど、敢えてそんなヤバイ事をするマインドの正体は一体なんなのか。
人間の力ではどうしようもない物や事
と、大自然を定義した場合、都市生活者である我々が一番身近で大自然的などうしようもない対象である自分の身体と心に向き合って純粋な恐怖や喜びを感じる為には、アプローチが違えど失いかけた動物としての身体性を取り戻す行為として自転車や登山やサーフィンというのはとても有効なのです。
もはやそれはスポーツを超えてその人の身体性を伴った表現行為であり、たとえ側からみて理解できない様な行為であっても、自分の全力で挑んで大怪我をしたり死んだりしたとしてもそれは祝福出来ることだと思うのです。
逆に現代では突然病気になったり事故したり、自転車や登山で命を燃やして危うく死ぬ様な目に遭うくらいでないと、積極的に生きているという実感が湧かないからなのかもしれません。