2019年10月27日
遂に
私も鉄砲撃ちになりました。
そしてその副作用として、先日の射撃場での試験以来、戦争映画や銃撃戦のシーンが楽しいと思えなくなってしまったのです。
圧倒的な暴力を手に入れた人間は表現出来ない恐怖を抱えて生きることになります。
明日、預けている銃を取りに行き、そのまま警察で検査を受けたら私は一般人ではなく、公安の監視対象になります。
それが怖いのではなく、やはり圧倒的な暴力が怖いのです。
牛や豚は必ず屠畜場で屠殺する事が法律で決まっており、家で潰すと捕まります。
そのため、生き物が肉に変わる瞬間はクローズドな施設で粛々と行われています。
この作業は歴史的に入り組んだ事情を孕んでおり、その点についても自分なりに勉強しましたが、料理の源流を辿るので有れば、この作業を避けては通れません。
現在の食を取り巻く諸問題は、分業化することで効率的に食べ物を供給するシステムを構築したことによる様々な見えにくい部分へのイマジネーションの欠如ではないかと考えています。
私はジャーナリストでも物書きでもないただのコックなのですが、自分の仕事に誇りを持つためには、食環境について知る事をやめてはならないと考えています。
キッチンで行われる諸々や小売、飲食店、経営という社会人間としての資本主義的な営みについては、長く経営者としてやってきた点に於いて、それなりに知識はあるつもりです。
しかし一次産業や流通などについて、絶望するほど何も知らないし、私に語れるものは何もなかった。
これは無責任なのではないか。
安く仕入れた食材に手間かけて高く売るだけの錬金術師にはなりたくない。
私は深い料理人になりたい。
自分が経験した事を自分の言葉で語れる人間になりたいのです。
自分の手で生き物を殺し、解体し、精肉し、加工して責任持ってお客さんに届ける。
分業化された現代ではこれが意外と難しい。
それぞれに厳重な許認可が課せられ、鉄砲だけでも気の遠くなるような手続きが必要ですが、それ以外にも自分のところで解体と精肉、肉加工品を作るという50年前は普通に行われていた事が出来なくなっています。
そのために何度も保健所に通って非常にハードルの高い施設基準を通すための莫大な設備投資や、肉加工の厳正な資格を取得しなければ川上から川下までを全て自分達でやる事が許されません。
自分でいうのも何ですが、私の知る限り、これらを自前でやりながらできた製品を東京のど真ん中のオシャレ施設の直営店で責任持って売る奴等はいないと思います。
最も自然から離れて暮らす都会の人に食べてもらいたい。
そして考えてもらいたい。
あとは私が上手く鹿や猪を獲れるかどうか。
ここにもまた、宇宙のような広い世界が広がっており、私の40歳代の挑戦でもあります。