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2019年10月24日

収穫の秋

1人ハロウィンでした。

にんじん、枝豆、里芋、サツマイモ、カボチャ…

少し土を休ませてから冬野菜の種まきです。

 

 

ある料理雑誌のコラムに

料理人が片手間で畑をやるのは生産者と意思疎通できてからでも遅くはない。

とありました。

果たしてそうでしょうか。

 

料理界に詳しい筆者が畑をやったことがあるのかどうかは書いていませんでしたが、料理人が畑をやる事でデメリットがあるとすれば爪が汚くなるくらいなもので、土壌や環境、生産者へのイマジネーションを体験を通して理解する事で料理をさらに深く考える事になると思います。

 

完全に分業化された現代の料理界は、文明の発達と共に進化ではなく、どちらかと言うと退化しており、昔の料理人がそうせざるを得ない事によって当たり前にしてきたことが出来なくなっています。

季節ごとのコンパニオンプランツが皿の上でも良い組み合わせである事は、害虫から互いの野菜を守るための自然の摂理であり、輪作は土壌を守るだけでなく本質的な多様性の意味を教えてくれます。

鹿はハンターが担いできたものを解体からしなければならず、無駄にせず現金化するためにも余す事なく使い切る工夫と知恵が育まれました。

 

生産者と意思疎通する事で、農業の問題点や苦労を他人事として頭で知識として知るのと、自らの身体を使って経験し解るのとでは見える世界の次元が異なります。

意思疎通するだけでは、料理人は農家にとっては、いつまで経ってもただのお客さんでしかない。

全てを作ろうとしなくていいのですが、出来る事や知らないことを身体的な経験として刻み込むことは無駄ではない。

そうした身体的な経験はタトゥーのようにいい意味でも悪い意味でも身体に深く刻み込まれ、やがて料理人としての血肉となるはずです。

 

知る事と

解る事は

は絶対に違う。

自分でプランターでもいいから野菜を作った経験があるコックとないコックとでは野菜や生産者、流通に対する関心領域が圧倒的な差が存在するはずであり、それでも生産現場に対するイマジネーションが欠損するのは単に考えが浅いという事です。

工業的に作られるモノとは異なる野菜や肉魚などは生命であり個性である前提を理解するかどうかで作られる料理は、キッチンで設計図を書いて出来上がるそれとは違うと思っています。