2019年10月11日
仕込みしますか
台風で暇だし明日も休みで下手な仕込みできないし、ならば先々の事をやっときますか。
シャルキュトリー の仕事は非常に人間臭いものです。
手垢が入るとかそういう不潔!オゲェ!てな話ではなく、例えば今回のように猪など野生の肉の場合は狩猟、屠殺、解体、精肉という料理の前段階があります。
これは山で朽ち果てた獣のように他の動物に食い荒らされて骨と毛皮だけ成り果てたモノと異なり、人間が人間たる所以である完全な解体行為がそこにふくまれます。
それは残酷でもなく気持ち悪くもなく、どちらかと言えば非常に美しい行為で、ほかの生き物にはない道具の使用を併せた、人類文化としての料理という行為の一部です。
料理の源流を辿れば必ずこうしたプロセスを踏むこととなります。
シャルキュトリー はその一番川下にあたり、さまざまな精肉を取った後の肉や臓物を有効利用させる工夫と知恵の結晶です。
シャルキュトリー 文化が内陸であるリヨンやオーベルニュで発達したのも新鮮な食材に関してハンデを負う地理的な部分が無関係では無いでしょう。
ドイツも農業にはあまり向かない土壌のため、飼っている豚を定期的に絞めてさまざまなヴルストをつくったのも同じ構図です。
現在では知恵と工夫であるものを無駄なく使い切る文化そのものが嗜好的意味合いすら持っており、料理の本質的な意味合いはエンターテインメント的な消費活動にとって変わられてしまいました。
パーツを真空パックで買うことが当たり前の現代において、料理の前段階である屠殺や解体をする事の意味合いは薄れています。
しかし、シャルキュトリー を極めるならば、狩猟から料理までの果てしなく長く深い文化を学ばないのはもったいない。
経験という、レシピには書けない分量が必ずそこには存在します。
現代において、全く新しい料理は存在せず、手を替え品を替えアプローチをかえ、先人の描いた地図の上をウロウロと巡礼の旅をしているに過ぎません。
50年前は屠殺や解体も厨房の外で当たり前に行われていた筈なのに、今では豚一頭完璧に解体から料理までを出来る人はほとんどおらず、先に設計図を書いて部品を買って組み立てているかのような精密な料理が良しとされます。
本来、自然の食材とは産地や土壌によって異なり、野生に近づけば近づくほどそのギャップは大きくなり、設計図など当てにならない筈です。
源流から川下までがエスプレッソのようにギュッと凝縮された一皿こそ表現としての料理は完成するのだと思います。