2019年08月07日
一週間お待たせしました。
ウルグアイ牛ヒレのデビューです。
やはりカイノミはサシが入っててコッテリ系でしたね。
勿論、それはそれで旨いのですが、やはりベアルネーズは脂のない赤身が良いように思います。
先週カイノミを食べた方には今月のどこかのタイミングで赤身肉の夏期講習とでもいいますか、肉の部位によるソースの組み合わせや取り合わせのロジックを体験して頂ければと存じます。
暑い暑い言ってても仕方ないので、温暖化に少しでも貢献できる牧草飼育オーガニックビーフフィレを下品なボリューム食べて乗り切りましょう。
辻堂は月曜日あたりに肩から頭、セットで頭オーバー。
今日は風が出て面がザワザワしてるものの、腰から胸というサイズ。
頭オーバーとなると、地面に寝て2メートルくらいの壁が崩れながら迫ってくる感じです。
ブレイクした波の圧倒的な重量感は、モロに食らうとサンドバッグを上から落とされたような衝撃。
ドルフィンスルーも居場所が悪ければ波に巻かれて一気に海底まで引きずり込まれ沈められ、乾燥機のタオルのようにグルグルと回り続け、パワーのある波であればあるほど海面に上がる浮力よりも強い力で人間を巻き込みます。
なんとか海面に上がり肺いっぱいに空気を吸い込もうとすると目の前には次の大波が来ています。
そうして次々と波にもまれて海底と海面の浮き沈みを続ける中で海水を飲み、運が悪ければ右足に繋いだサーフボードが直撃、海面に這い上がる体力が尽き、いつしか意識が遠くなってサーファーは簡単に死んでいきます。
崩れ始める波が一番パワーがあり、そう崩れるか崩れないかのピークと呼ばれる一点に向かってパドリングし、タイミングを合わせて振り向き、崩れかける寸前の波のピークに入ってブレイクからコソコソ逃げ続け、喜びの雄叫びるを上げるのがサーフィンという行為です。
サーフィンは大自然に限りなく近く、波と身体の間にあるのは薄い板1枚。
あらゆるスポーツの中で一番シンプル、自然に対してクリーンでフェアだと思います。
海の呼吸ともいうべきウネリが海底が隆起する浜辺に打ち上げられる瞬間、一気にパワーと高さを増してブレイクします。
ウネリという海の呼吸ががいくつか重なり、まるで海のため息のように巨大な波となったセットと呼ばれる波は遥か沖から更に大きな動く壁となってサーファーに襲いかかります。
セットに自分の呼吸を合わせてちょうどよく乗れることが出来た瞬間こそがサーファーのオーガズム。
台風の海に入ってアウトに出るということは圧倒的に危険でもありながら、最高の瞬間を求める事でもあります。リスクのないところに喜びや達成感は無い。
台風が来ることを喜ぶのは不謹慎であると知りながら、カリカリになった畑に恵みの雨を降らせると共に、暑くて無気力な乾いた私の血を滾らせるのが台風なのです。

出たとこ勝負、毎日予定不調和なのが私のお客さん向けのクリエイティブなフランス料理だとすれば、賄いは狙った味わいを狙い通りに着地させる予定調和料理、言うならばプロレス的料理が賄いです。
賄い料理は名前のある料理でなければならず、観衆がウエスタンラリアットやギロチンチョークスリーパー、コブラツイストという必殺技に期待と希望とカタルシスを得るのと同様に、ピッツアならばピッツェリアクオリティのピッツァでなければカタルシスは得られない。
先日のお煎餅ピッツァから立ち直る事が出来ないので、今日は軌道修正の意味合いから私が作る事にしました。
この辺で若い奴らをバックドロップかパイルドライバーでマットに沈め、延髄ドロップキックで首の骨ヘシ折るくらいの格の違いを見せつけておいないと、お客さんに出すわけではないプロレス料理はガチンコではないプロレスだから、所詮プロットの決まったショーでしょ、という事でプロレスをナメられては困る。
決まった手順、決められた技、期待される味にプロレス的に予定通り着地。
ランチ始まる前に粉と水をこねて一次発酵。
そしてランチ終えたあたりで空手チョップよろしく分割成形。
現在二次発酵中。
お品書きは
オイルサーディンと九条ネギチーズ
マルゲリータ
鮎の塩辛と万願寺とうがらしモッツァレラ
あたりか。
世の中に、これ以上面白い事があるなら教えて欲しい。
料理は本当に楽し過ぎる。
辻堂オヤジサーファーズがザワザワしてます。
青山のリス某ランテ某ンダさんの某多さんから早速のお誘い。
行きますよー。行くに決まってじゃないですかー。
いつものポイントで会いましょう的なフワっとした約束。
このユルさが親父サーファーズの良いところです。
波のいい日は約束しなくても大体同じメンバーなんですよね。
2019年08月03日
クール宅急便で思い出しましたが、
昔、お客さんでAVの監督という男達の夢の職業されている人がいまして、成り行き上、どうしても断りきれずにそのお客さんの作品をたくさんもらったことがあります。
既婚だった私はその貴重な作品群を家に持ち帰ってムヒヒなことをする事が不可能な状態にあり、さてどうするか、と考えたところ、外苑か青山かにある、今をときめくレストランの某シェフがエロDVD好きだったのを思い出し、送ってあげることにしました。
数にして200本以上の作品は巨大なダンボール満タンで15キロほど。
爽やか系イケメンで売っているシェフなので、ダンボールいっぱいにムヒヒなモノを送ってもらったとスタッフにバレるのは可哀想だ。
そうか、クール宅急便で野菜を送ったことにすればスタッフにも怪しまれる事はないだろう。
冷やすと画質が良くなるという都市伝説もあるし、ボクちゃんは大変気がきく。
ヤマトさんの伝票に新鮮野菜と書き、揺れるとガチャガチャ硬い音のする新鮮野菜達をクール宅急便でキンキンに冷やして送ってあげました。
それはそれは喜んで、それから何日か寝不足でしたよ、との嬉しい感謝の電話がありました。
いやー、彼が出世した時に文春にこのネタを提供するのが楽しみです。

ほらね、今日も怒ってます。
昔、ニースから種を密輸して北海道の農家さんに作ってもらったズッキーニのオバケみたいな野菜、クルジュ。
今では各地で在来種として作られているようです。
これは高知県からきました。
北海道のクルジュはもう少し太くてカーブが緩やかだったので箱に入らなくて大変でした。
なので、箱に入れずにプチプチで巻いてクールじゃない宅急便で品名はワレモノ厨房部品という事で送って貰ってました。
味わいとしてはなんとも表現のしようがなく、食べてもらわないと理解出来ません。
元はズッキーニ系のウリの仲間なのでそれっぽい感じですが、日を置いて熟成させるとカボチャ感が増してきます。
せっかくなので、タネを採って私の畑に来年蒔いてみよう。
湘南の気候で在来品種となったらどんな感じになるのかな。
例えば、具沢山サラダを作るとしてテリーヌやハムを仕込んだとする。
それぞれはそれなりに良い味わいと仕上がりだったとして、
サラダ菜は農家直送のオーガニックでクオリティがその辺の葉っぱとは明らかに別モノで、それ自体に圧倒的なパワーがある場合、ともすると一体何を食べさせたい料理なのかがボヤける。
シャルキュトリー を食べさせる一皿ならば、テリーヌは厚みと存在感、完成された味わいが必要だけれども、葉っぱを食べさせるサラダなのであれば薄く何枚も切って旨味として添えるべきだろう。
ボリュームサラダ的にそこに卵をトッピングで載せたい。
チーズかけたらもっと美味しくなるかも。
さぁ、どんな卵を載せるのだ?
なんのチーズを載せるのか?
固茹で卵をくし切りにするのか、半熟卵のトロリとしたところを葉っぱに絡めてたべさせるのか、粉状に砕いてミモザとして全体に散らすのか、ポーチドエッグにして主役級の役割を持たせるのか、変化球で温泉卵として液体状の卵白とトロリとした卵黄のテクスチャーを求めるのか、だとするとそれは何故なのか?
卵を載せることで全体の塩味は薄まる代わりに卵黄のコクとタンパク質のボリュームが出るけれど、ヴィネグレットを変える必要もあるだろうし、そもそもそうする事の意味合いは一体なんなのだ。
卵で薄まる塩味をチーズで補いつつ、卵とチーズを繋ぐ葉っぱの役割を殺さないソースとはどんなものだろう。
酢は生で入れるのか、少し火を入れて酸味を飛ばした方が良いのか、レモン汁の方がいいのか?
肉のテリーヌ作るなら、皿の上にテリーヌ1枚だけで完璧に料理として完結しなければテリーヌではない。
何を作るにしても、ウチのスタッフにはこういうことを毎回毎回執拗に問います。
問われても答えられないような浅い要素は容赦なく排除していきます。
意味のあるモノを足し算するのがフランス料理でありながらも余計なパーツを排除した機能美とも言える味わいこそが美しい。
そして美しい料理は旨い。
逆にどうでもいいモノを付け加えたくなるのが初心者的発想。
複雑になればなるほど本質が見えにくくなり、ゴマカシがしやすいですから。
でも、それは素材を活かすことにはならず、ただの料理人のマスターベーション。
思想や思考の無い料理は料理に非ず。
だいたい私は毎日イライラしてるし、いつもキッチンでは怒ってるし、満足したことなんてこの20年で1日たりとも有りません。
今日も怒ってます。
2019年08月02日
いつもお世話になってる某番組から出演のオファー。
テーマはジビエとの事。
現在、免許取得中ってのは知ってかしらずか、このテーマで私のところに話が来るというのはなかなかのプレッシャーです。
これで猟銃所持の身辺調査引っかかったとか、狩猟免許落ちたとかだとかなりカッコ悪い。
番組に出るか出ないかの返事は来週中なので試験結果はまだ出ず。
さあ、どうする。
まあ、試験落ちててもジビエ料理作るかどうかには関係ないので、聞かれたらテキトーにお茶を濁してやり過ごすしかないか。
あー、受かっててほしい。
と、そんな薄っぺらい心配など、実はどうでもよく、狩猟と猟銃の事を勉強し、生きるものを殺すという事を自分ごととする過程の中で一番に思うこととしては、ジビエはただの美食やブーム、害獣駆除という人間の勝手な都合でもない、奪うものと奪われるものという命のやり取りの中で一体私にそんな資格があるのか、ということ。
自然に生きる動物や植物の価値とは何だろう、その命を奪う人間とは一体何か、ということばかり考えてます。
自然の生き物の価値、それは即ち死であり、生き物が死する事で他者を生かすこと、ではないかというのが暫定的な私の答え。
山の中で朽ち果てた生き物は腐り、ウジが湧き分解され、土に還り、他者の栄養分となり、循環していく。
人間に狩られた生き物も余す事なく食べられ、活かされ循環の一部となるべきだと。
だからこそ、無駄にすることなく料理されなければならない、と思う。
結局、私の中で全て食品ロスに繋がっていくのです。
しかし、貪るだけの現代人が自然に対してどのような形で循環の一部となれるかどうかという問いの答えは未だに出ていません。