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2019年03月06日

私のバイブル

何冊かあるうちの一冊です。

 

 

 

 

経営学の父、ピーター・ドラッガーによれば、現代のNPOの源流は日本の寺にあると言っています。

私の実家は寺でした。

そんな血がわたしにも流れているのかもしれません。

 

辻先生は仏教的宗教観と文化人類学を融合させたエコロジカルな思想を持った教授さんです。

私が大学に行けたとしたらこの人の授業を受けてみたい。

学生時代にこの人の本に出会いたかったと激しく後悔した本です。

もう何回読んだかわかりません。

 

仏教が日本に入ってくる前からある山岳信仰と八百万の神というアニミズムに根幹を持つ日本人の優れた思想観や高い倫理観は、無宗教無信仰と言って憚らない現代人にも変わらず流れていると私は確信しています。

 

極度にスピードアップした時間の流れ、欧米化に遅れまいとする事で見えていたものが見えにくくなっている現代人にとって、辻先生の提案は非常に示唆に富み、忘れかけていた大切な事を優しい言葉で諭してくれます。

 

カタツムリのようにゆっくりと生きる、ゆっくりとダイナミック動くべきだ

一見どこが動いているかわからない、テンポを刻まない、それでいてダイナミックな動き

と表現しています。

これは福岡伸一先生の動的平衡ではないか。

生命の本質は人間の本質的な生き方にも通じるんですね。

 

 

サティシュ・クマールは世界が良くなる方法として、ベンチを例に出し、このような思想を持つべきだと言っています。

いや、立ち返るべきなのか。

 

ーー

ベンチは分かち合いの精神の象徴です。ベンチを所有する者はありません。

誰もがベンチに関わりを持っています。つまり、オーナーシップではなくリレーションシップなのです。

ベンチとはインポジションではなく、インビテーションです。

あなたが金持ちでも貧乏でも白人でも黒人でもベンチはあなたを招いています。

ベンチは誰も拒まず全てを受け入れみんなを公平に扱います。それは公正と寛容の精神の象徴であり、分かち合いの精神です。だから、私もベンチのようでありたいものです。

さあ、あなたもベンチになりましょう。

 

ーー

 

 

2019年03月05日

猟銃所持許可

講習会と試験に横浜へ。

 

開港記念館という素晴らしい建物の中に一日中缶詰です。

 

この安心安全安倍自民党独裁国家の日常生活において、銃の必要性など全く必要のないのにわざわざ持ちたい人なんて、

私も含めてちょっと気がふれてるアウトロー人間やサバゲーヲタクのようなキレたら何するかわからないようなヤバイ奴など、

目が合わないアブナイ人がさぞや沢山の来て、警察に対抗心燃やして椅子から脚を出して腕組みしながら野次飛ばすような、例えるならばガチンコファイトクラブみたいなのを予想、期待してたんです。

 

生徒がガチンコファイトクラブみたいな、ならず者ばかりならば、

講師も竹原みたいなドスの効いた広島弁のコワモテで、

銀縁のサングラスでもしてきてくれれば

私的にも非常にネタとして面白かったんです。

おい!テメーら、銃ナメんな!

みたいな。

が、完全に期待を裏切られて、講師は初老の紳士、公安はエリートっぽい七三わけの弱そうなお兄さんで、受講者はいたって普通の人ばかりでした。

 

 

この後鉄砲屋さんに行って買いたい銃買って弾を買えば、バンバン撃てるわけではありません。

 

銃も色々と種類があって自分のやる事に対して最適なモノを選ばなくてはいけません。

この後、射撃場での実射訓練と試験があり、それに通ると公安の身辺調査が入り、医者の診断が入ります。

 

オタクの旦那、犬に対するDVとか犬に対する過度の可愛がりとか犬に対する高圧的なネッチョリした言動とかないですか?

オタクのシャチョーの荻野さん、スタッフに対して罵声とかセクハラ言動とかドロップキックとかヘッドバットとかないですか?

オタクの旦那、遅い車に乗ってるから高速道路でプリウスやアルファードに後ろから煽られたり、無理な追い越しされて舌打ちした後に追跡したりしないですか?

などなど。

 

あとは罰金刑含む犯罪歴などを照合して所持許可が出されます。

私の場合、スピード違反と駐車禁止ですね。

血だらけのイノシシ積んで職質かけられた時は罰金も無かったし。

 

その後も所持している弾の数と撃った弾の数が合わなかったりすると逮捕されたり、いきなり警察が家に来て保管状況の確認したりと、まあ面倒な事が盛りだくさんです。

 

それにしても日本の銃規制は本当に厳しい。

まあ、必要のない危険物を所持するわけですから、厳しくて当たり前です。

 

アメリカでは小学校で銃の取り扱いについて学ぶことが基本で、オモチャの鉄砲はおろか、

水鉄砲ですら、人に銃口を向けることに対して絶対にしてはならない、そして引き金に指をかけることの意味合いもしっかり学ぶのだそうです。

なぜ厳しい銃教育なのに乱射事件など起きても厳罰化や規制がかからないのかについては、この講習をキッカケに私なりに考えました。

それはまたの機会に。

 

 

私の場合、狩猟が趣味というわけでもなく、単純に銃を撃ってみたいという奇形した嗜好もありません。

 

食べ物を食べるという事の背景とプロセスを徹底的に自分ごとにしたいというだけです。

ならば、釣りでも畑でもいいでしょう。息子がもう少し大きくなったら一緒に釣りに行って魚を釣って食べるでしょうし、うちの畑には息子とよく通っています。

 

私は狩猟銃によって大型獣を射殺する事が目的なのです。

こうやって書くと、

遂に荻野も気がふれたか、

と思われても仕方ないでしょうが、

私の思想として

プロセスも出来る限り自分でやらないと美しい料理は出来ない

と思うのです。

アルパインクライマーが美しいラインで自力登攀するのと同じく、なるべく他者や道具や見えない部分を排除し、全て自分の手を使って登ってみたい。

獲物を探し、狙いを定め、引き金を引き、ドドメを刺し、事切れる瞬間を見届け、解体し、あらゆる料理をし、無駄なく食べきる。

 

これこそが私の中の美しい料理なのです。

 

意味のない雑草がピロピロしていたり、ドライアイスが出る料理はエンターテイメントとしての料理であって、私の定義する美しい料理ではない。

 

フランス料理の根幹であるテロワール思想とは、見た目や派手さではなく素材の背景とプロセスです。

獣の胃袋にブルーベリーが入っていれば、ブルーベリーのソースを添える、広葉樹の森の獣ならばその木でスモークをかけ、その土壌から作られたワインを添える。

そうした意味からも現場に行って山の匂いを嗅ぎ、自然に入っていって狩猟によって殺す事、殺して全てを料理して無駄なく食べることはフランス料理の本質であると思うのです。

 

狩猟獣の山林廃棄問題や害獣駆除問題は完全に都市型生活に慣れた人間がもたらした歪んだ生態系の問題点であり、私にとってあくまでも二次的なもので、これをなんとかしたいから狩猟の世界に入りたい、という綺麗事を言うつもりは毛頭ありません。

そんなモチベーションは続かないですから。

今更ジビエを看板料理に掲げる必要もないでしょう。

私の場合はもっと哲学的なテロワールを突き詰めた問題で

生命とはほかの生命を奪うことでしか、いわば殺す事でしか持続出来ない、という当たり前のことを自分の手で行う事によって美しい料理が完成すると感じているからです。

奪った命を無駄にしないというのは、自分で殺してみて初めて感じることが出来る心境ではないのか。

美しさというのは、殺すことで芽生える命に対する申し訳なさや後ろめたさ、やらなくてもいい殺戮をしてしまった自分の存在意義などをグチュグチュっと混ぜてエスプレッソマシーンでギュと絞り出したような黒光りする人間臭さや手の味や血の匂いではないのか。

命を殺すとはどういうことかをカラダと記憶にタトゥーのように刻み込むこと、それこそが猟銃所持の私の意図です。

殺す事によって得られた命を料理することはエンターテイメントではない。

 

 

しかし、矛盾点もあります。

なるべく山に対してフェアでありたいと考えるアルパイン思想においてはハーケンやピトンを使わず、さらにハードコアになればフリーと呼ばれるザイルすらもフェアではないとの思想から使わないツワモノもいます。

ならば、鉄砲で獲物と対峙するのはフェアではないのです。

本当にフェアにやるならば、木の棒とか自作の武器、もしくは素手でタイマンはらなければいけません。

しかし、人間はすでにイノシシやシカに空身では勝てない。山を彼らのように自由に走り回ることすらも二足歩行によって放棄してしまった。

アメリカでは、よりフェアに対峙するために銃ではなくボウガンという弓矢による狩猟もありますが

本来ならば飛び道具など使わずに、もっと手応えが残るものでやらなければいけないのです。金属バットや角材で殴ることによって、なにかを壊すという”手応え”を身体と記憶に残すことこそが本質的なのです。

 

解体という作業は気持ち悪いとかネガティブなイメージがあるかもしれませんが、わたしがスタッフに解体を教えると、嫌がるかと思いきや、どちらかと言えば嬉々として行われる事が多いです。

血が出て内臓が飛び出し排泄物が漏れ出しながらも皮を剥かれ、骨が外され各パーツに分けられて行くプロセスは人類の歴史における最大の特徴である料理という文化の源流はここにあるのではないかと思うほどに美しい行為です。

そうした一連の流れのずっと下流にこそ、

“美しい料理”

が存在すると感じているのです。

 

 

2019年03月03日

降っちゃいましたね。

今日は東京マラソンで、残念ながら雨です。

 

雨のマラソンて、苦行でしかないですよ。

 

寒くて体温上がらないから脚が動かないし、途中で何やってるかわからなくなりますよね。

 

沿道の応援も晴れの日よりは少ないのではないか。

 

しかし、こんな大会も後になればいい思い出です。

 

私も五島長崎の2回目の大会は朝からずっと雨でバイクパートでは100キロ過ぎて土砂降り、その後もずっと強く降り続き、ランに入って何となく弱くなりましたが、ランのゴールするまでずっと今日みたいな雨でした。

 

特にラン21キロの折り返しからが地獄でしたね。

 

今振り返ってもあの時のレース程肉体的にシンドイ事はありません。

 

 

 

 

この天気でマラソン完走できたら自信になると思いますよ。

2019年03月02日

ちょっと軽くなるかもしれませんよ

 

平野啓一郎さんを立て続けに読んでます。

 

コミュニティの最小単位は家族ですが、社会的観点からの最小単位は個人でしょう。

しかし、個人といっても色々な顔を使い分けています。

例えば私は店ではお客さんに対してはニコニコしている感じのいい上品なイケメンというイメージで間違いないと思いますが、スタッフ側からするとただの40過ぎの恐怖感溢れるイケメンでしょうし、明らかにお客さんとスタッフの前では同じイケメンでも人格が違います。

家族の前では寡黙で根暗なイケメンとして、また職場とも違いますし、犬の前ではまた息子やカミさんとも異なり、偉そうなイケメンボスになります。

サザエさんと桃子さんではそれぞれに私のイケメン人格がこれまた違いますし、Tシェフの前では私はチワワのような萎縮したイケメンとなります。

これは大人ならではの人格の使い分け、意識しなくても社会的な立場によって色々な顔をを使い分けているのですね。

 

 

著者はこれを個人をさらに細かく分けた分人と定義します。

 

 

分人主義的に社会とあなたの関わりを見て行くと非常にわかりやすく物事が理解できます。

全部足して100があなたという個人の場合、100のうちの特定の分人がどれくらいの割合を占めるかが、相手との関わりの重要な目安となります。

職場での分人よりも家族との分人の方が安らげるのであれば、家族分人の方があなたらしく、職場の分人はあなたらしくないと言えますから、家族との分人を大切にして行った方がよく、職場的分人は割り切って過ごすしかない、もしくはなにかを変えることで心地よい分人になることが出来ます。

 

この分人主義は平野さんの小説に貫かれている考え方であるように思います。

 

自分という個人の中に様々な顔を持つ分人が存在し、そのことを肯定的に捉えることで恋愛や職場や家族との関わりを再定義しているのです。

個人の中の分人の割合があなたという人間なのであって、八方美人とか多重人格とかネガティブに語られることの多い複雑な人間関係を抱える現代人の処方箋になるでしょう。

ともするとなんでもかんでも病名を付けて薬漬けにされる可能性が高い心理的な病気や、現代人の一番の毒であるストレスも、一旦立ち止まって平野さんの分人主義を自分に当てはめて考えると、ストンと腹に落ちる事も多いと思います。

 

私のような仕事はまさにお客さんごとに分人が存在するといってもいいような人の顔色を伺う仕事であり、それが楽しくもあり辛くもある仕事です。

料理人でなく、それがどんな仕事でも、そもそも仕事とは金を稼ぐ前にだれかの為に汗をかくということであり、金はその結果に過ぎません。

そして現代のストレスの根源は全て人間関係由来です。誰かの顔色を伺うということがすべてのストレスなのです。

 

でも、それでいいんですよね。

人間なんですから、お互い調子いい時も悪いときもあるでしょう。

分人という客観的観念を持つことは人に対しても自分に対しても寛容になれると思います。

 

この本は読んでよかった。

 

北澤、ありがとう

 

リンゴ農家やりながらレストランとかカフェとかやってる私の弟子から、毎年恒例のりんごジュースが来ました。

 

おい、北澤、今年のは結構甘いな。

何かで割らないとシンドイぞ。

 

 

 

この北澤、かれこれ20年の付き合いで、私との出会いは私が21歳、北澤が20歳でした。

本当に不器用な子で、当時いっしょに働いていた職場で大変なヘタこいてクビになったくらい色んなヘタレ武勇伝を持つツワモノです。

 

その後、私が目黒で店を一軒任されるときにあろうかとか、北澤に声をかけて一緒に働いてもらうことにしました。

 

案の定、私のキッチンで来る日も来る日もありえないヘタこきまくって私に八つ裂きにされる日々。

後にも先にもキッチンでドロップキックやヘッドバッド喰らわせたのは北澤以外に居ません。

 

それでも涙とヨダレを流し、私の靴底の跡だらけのコックコートで食らいついてくる不気味なガッツがあり、途中からは料理の方向性について首締めあって喧嘩するほどになっていき

休み前に新婚だった私のボロ家に呼んで一晩中、料理について話し合った覚えがあります。

それだけに絆が強いというか、だいたい何考えてるか言葉無くても理解し合えるほどに濃密な2年間を経て、実家の長野県に返って家業を継ぎました。

 

あの頃は私も若くて馬鹿だったし、北澤も馬鹿で若かった。

 

今や、私など飛び越えて世界中で活躍する弟子達の近況を聞くたび、最近は素直に嬉しくなります。

 

2019年03月01日

背徳の輝き

 

タルト・タタン

ウヒャ、こりゃ旨そうだ。

てか、旨いです。

 

しかしながら、このデザートには大量の砂糖とバターが使われております。

 

20年の試行錯誤の末にたどり着いた現在のところの答えです。

 

キャラメルの具合と追い砂糖の量、リンゴの火入れ、パイの焼き具合、そして提供温度。

 

焼き上げたあと、一旦冷まして鍋から抜くのですが、パイの具合からして作り立てを食べて頂きたいのですが、なかなかタイミング的にピタリとくるのは難しいです。

 

昔はもっと真っ黒くハードコア向けに焼いてましたが、最近は私の性格同様、優しくソフトになってきました。

熱くもなく冷たくもないティエッドという温度帯で軽くあわ立てた生クリーム、バニラアイスを添えてソースがわりに食べて頂きたいのです。

 

 

うむ、やはりな

 

 

今をときめく人気作家、東野圭吾大先生です。

 

映画化されたりドラマ化されたりと映像で観ることが多い作家の一人です。

 

どのストーリーも基本的に人が殺されてから、色んなバイアスがかかってどうするこうするって話がほとんどです。

 

バイアスってのが東野作品に通底するもの、それは家族愛と殺人です。

 

容疑者X、さまよう刃、真夏の方程式、麒麟の翼、そしてこの作品もテーマはまさに家族愛による殺人。

 

推理小説というよりもヒューマンドラマ的な要素が大部分を占めるあたりが堪らないのでしょう。

 

 

世間的には良いとされている作品を面白くないと感じてしまう自分の感性は捻くれているのだと再認識し、自己嫌悪しております。

 

横山秀夫先生の作品は非常に面白く、山崎豊子大先生の小説は何度読んでもシビれます。

 

 

多分、合う合わないという相性の問題かもしれません。

デビットリンチが好きって人にアブノーマルしか居ないのと同じ、好みなんてそんなもんです。

春ですねー。

さあ、今日から3月。

飛ばしていきます。

 

アスパラガスは継続中。

馬のタルタルは在庫限りとなります。

 

代わりまして、ホタルイカとイワシです。

イワシはジャガイモと一緒にオーブンで軽く焼きます。

そこにホタルイカを叩いたソース、佐々木さんの紅時雨大根とフヌイユのサラダです。

イワシとジャガイモとフヌイユはいかにもフランスです。

 

 

珍しく刺身用のシマアジを買いました。

なかなか脂が乗ってて良い感じです。

オーガニックの野菜を別々に火入れしましてシマアジとレモン汁、にんにくオリーブオイルで軽く和えます。

その上から伊豆の鹿からとったコンソメゼリーをかけたガストロノミーな前菜。

鹿のコンソメは臭いと思うでしょ?

食べてみてください。

クリアに引かれた鹿コンソメの濃厚な旨味にビビってもらえると思います。

 

春はデトックスの季節です。

アクの強い苦いものを食べて身体の毒素を出しちゃいましょう。

イベリコ豚の赤身を

食べてもらうためにはロースから真ん中の芯の部分だけをズッポリ抜き取るしかありません。

 

そんなことしたら脂もったいないし、原価高くなるやんけ、って事で基本的には脂はつけたまま焼きます。

しかし、脂ではなく赤身を食べてもらいたければ脂を落とすしかありません。

もちろん、落とした脂は後で肉のテリーヌに入れます。

 

芯だけにしたロースに農家さんから来たフレッシュハーブをガッツリ乗せて網脂で包み込み、しっとりと焼きます。

網脂は腹膜なので焼いたら膜だけ残ります。

 

網脂とハーブを使うことで間接的に加熱できるため、硬くなることなくしっとりと火が入ります。

 

春ですねー。

 

逆視点から

 

オーガニックや非遺伝子組換えなど、エコ農業論者の主張に真っ向からガチンコ勝負した本です。

 

そう、私のような人間が読まなければいけない本です。

どうしても私はオーガニックな生産者の事を書いた本や記事を読みがちですが、何事も偏ると良いことありません。

この本は本屋をブラブラしていたらたまたま目に入って立ち読み、そのままお持ち帰りという本屋ならではの好きなパターンです。

こういうのはアマゾンでは逆にオヌヌメ本として出てくることないので、やはり本屋に行かなくてはいけないな、という事です。

 

著者はコンサル業界から農業と畜産をメインにした専業農家に転身し、昨今のエコブームや農協解体論を都市伝説かと言わんばかりにバッサリ切り捨てます。

そこには丁寧なコンサルタントならではの細やかな考察とエビデンスを用いた理路整然としたロジックで淡々と間違った農業に対する誤解を一つ一つ解き明かしていきます。

 

農業と一口に言っても、農業全体を把握している人間は誰一人として無く、トマトと米は全く違うプロセスで、養鶏と鶏卵も似て非なる産業構造なため、一口にこうするべきという突破口など存在しないと語ります。

 

遺伝子組み換え技術や農薬についても安全性に申し分はなく、使わない選択肢はもはや人類にない、と言い切ります。

 

果たしてそうでしょうか。

著者の丁寧な主張は本当に勉強になります。

しかし原発と同様に、遺伝子組み換えや農薬、私の分野で言うところの食品添加物はそれ単体での安全性には厳しい基準や検査や臨床試験が課されていますが、複合的な使用や長期間使用による副作用や弊害は人類にとって未知の世界です。

その世代には影響がなくとも数世代の後になにかしらの形で現れることは絶対にないと言い切れるのか。

生命とは動的な平衡であると福岡伸一先生は言いました。

遺伝子の操作やゲノム編集など、生命の設計や切り貼りを人為的に行う事による揺り戻しは必ずどこかに来るでしょう。それが一体どこに現れるのかは私達には想像出来ません。

 

例えば自然栽培の方法論には、作物本来の力を引き出し、寄り添う事で無農薬無肥料無除草剤を実現し、慣行よりも安定した収量とコスト削減が達成できていますが、それについては触れられていません。

 

私自身も畑をやることで慣行とオーガニックの違い、それぞれの長所と短所がなんとなく理解できて来ましたが、善悪の二元論で正義を語ればそこに悪が生まれます。

豊かさとは選択肢が増えることです。

戦後の食糧難から脱却し、飽食の時代を迎えて農業人口が減る中で、口に入れるものの本質論を当事者意識を持って考えなければいけない時期にあるのは間違いありません。

 

買い物とは選挙です。

 

自分が何を買うのか、何を選ぶのか、それは代替価値としての金銭ということではなく、自分や家族の明日を作り、日本の未来を作る一部分であると認識して日々の食事を考える事です。

そう、彼らは私たちなのです。

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