2019年03月07日
朝日新聞から
先日の食品ロスの取材の原稿が来ました。
細かいところを修正して返信します。
プロが書けば私の仕事人生なんて、たかだか原稿用紙4〜5枚です。
そんなちっぽけな私でも自分が、こうあるべきだ、と考え、シコシコとチマチマと行動したさまざまな取り組みを誰かが文字にしてくれるというのは、なんだか複雑でむず痒くて恥ずかしいものです。
今回の新書はアメリカ的な大量消費社会に一石を投じる本です。
全人類がアメリカ人と同じ生活をすれば地球があと7個必要なんだそうです。
いやいや、日本人と同じ生活しても4つくらいいるんですって。
アメリカ人も日本人も先進国の人間は原因の一部です。
私より若い世代にはそうした消費に対する意識変化の胎動を感じます。
私たち世代は産まれた時にはありとあらゆる物が揃い、なに不自由ない物質社会に生まれてきました。
高度成長期である戦後直後生まれの団塊の世代は物質的な豊かさを求めてローンで車を買い、銀行から金を借りて家を買い、ボーナスでモノを買いましたが、私たち世代は全てが足りていて足りない何かを渇望できない世代、言うならば
“渇けない世代”
なのです。それはそれである意味で不幸なのです。
ものづくり大国のメーカーはよくわからない余計な機能をつけたり、飽和状態の隙間になんとか余白を見つけて価値を作らなくてはならず、自給率は先進国でも最低レベルなのに毎年輸入するのと同じだけの食べ物を捨てています。
私よりも若い30代の皆さんは今までの消費社会に対して非常に面白いアプローチと高い意識でビジネスとしてそれぞれの分野で問題解決に取り組んでいます。
そんな世代の取材も沢山されたみたいです。本を読むのが楽しみです。
私はサステナブルという言葉が嫌いです。サステナブルということは現代には既に存在しません。
人間がなにかをすれば必ず何かを犠牲にします。
帰宅に車を使えばガソリンを消費し、エコ思想で乗り換えた電気自動車も通勤電車も発電のためのエネルギー負荷がかかります。
ならば化石燃料をやめて、全てが薪に戻れば山から木がなくなるでしょう。
電気がなければ2年で人類の70%が生きられず、もはや人類は生物ではなく電気製品となってしまいました。
究極のエコロジーは人類がいなくなることと言っていいでしょう。
全てが矛盾しています。
大きな矛盾をそれぞれに悩み抱えながらもできることを懸命にやる。
使えるものは大切に使い続け、無駄を出さないシンプルな暮らし、まだ食べられるものは様々な料理法を駆使して美味しく楽しく食べられるべきです。
そうした意味でも本来使われるべき言葉は”持続的”のサステナブルではなく、”責任的”であるレスポンシブルやレスポンシビリティ、パッと見えない何かに思いを馳せるイマジネーションではないかと思います。
朝日新聞新書、”大量消費社会”(仮題)は四月中旬刊行予定です。
是非。