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2019年02月15日

愛と過去、優しさとの関係性

マチネの終わりに を読んでこの著者をもっと読みたくなり、最新刊を購入。

これまた速攻で読了。

平野啓一郎

ある男

 

まだ2作しか読んでいませんが、マチネの終わりに とテーマが地続きではないかと感じますが、この本は非常に重いです。

 

ズーン、ズーンと、非常に重苦しいテーマ音が重低音でずっと響いている感じです。

 

 

ーー

愛にとって 、過去とは何だろうか ? … … 』城戸は 、里枝の死んだ夫のことを考えながら 、ほとんど当てずっぽうのように自問した 。 『現在が 、過去の結果だというのは事実だろう 。つまり 、現在 、誰かを愛し得るのは 、その人をそのようにした過去のお陰だ 。遺伝的な要素もあるが 、それでも違った境遇を生きていたなら 、その人は違った人間になっていただろう 。 ─ ─けれども 、人に語られるのは 、その過去のすべてではないし 、意図的かどうかはともかく 、言葉で説明された過去は 、過去そのものじゃない 。それが 、真実の過去と異なっていたなら 、その愛は何か間違ったものなのだろうか ?意図的な嘘だったなら 、すべては台なしになるのか ?それとも 、そこから新しい愛が始まるのか ? …

ーーある男

 

ネタバレするので書きませんが、

登場人物たちに極端とも言える境遇を背負わせることで鮮やかなコントラストで人物像を照らし出し、隠された過去と愛の関係性を炙り出していきます。

自らの過ちだけでなく、生まれながらに宿命として背負わなくてはならない過去や生きながらに抱えざるをえなかった秘密。

もはや悩みや言えない過去を抱えていない人などこの世に存在せず、みんな誰に言えず蓋をして生きています。

こうあるべき、理想としていた人物像を追い求め、過去の自分を偽る事は罪なのでしょうか。

誰しもが何かしら仮面をかぶっているのでは無いのか。

およそ受け止められない現実を突きつけられた時、人間同士の愛とはどうするべきなのでしょうか。

 

 

 

この小説の奥底にドロドロと流れる主題、それは本当の自分とは何か。

職場にいる自分、友人と過去の自分を懐かしむ自分、お客さんとして振る舞う時の自分、寛げるはずの家族といるときの自分、それぞれ人は無意識的に個人という最小単位をさらに細分化することによって私たちは自己を保っており

人は他者の関わりで自己を認識すると言えます。

平野氏は別の著書で個人を細分化した単位として”分人”という概念でそれらを説明していますので、それはまたの機会に。

 

 

“人は、色々な事情を抱えて生きているものだ。そういう事情に、ひとつずつ、きっちり決着をつけながらでなければ次のことを始められないというなら、人は何も始めることなどできないのだ。人は誰でも、様々な事情を否応なくひきずりながら、前のことが終わらないまま、次のことに入ってゆくのだ。そうすることによって、風化してゆくものは風化してゆく。風化しきれずに、化石のように、心の中にいつまでも転がっているものもある。そういうものを抱えていない人間などはいないのだ”

夢枕獏ーー神々の山嶺