いやー、とんでもない本でした。
こんな本にはなかなか出会えませんね。
出会えてよかった。
あまりにも凄い本なので、興奮して感想が圧倒的に長くなりました。
いやー、本当に凄い本だ。
天才っていいな。
例えばバンクシーが日本に現れたとかデマだとか色んな憶測が出てますが、バンクシーの凄いところはそうした論争こそが彼の作品であり、議論の投げかけで起こる人々のモチーフに対する考察のボリューム感であり、作品自体に主体性を持たせた点において今までのアートとは一線を画すきっかけになったのだと思います。
マルセル・デュシャンの便器がアートになるような奇抜さではなく、消される前提あるいは撤去される前提でストリートに絵を描いては消され、額に入れた絵は落札された瞬間に額に内蔵されたシュレッダーで切り刻まれることでモチーフとなった絵のテーマに光が当たることによってアートが完成するのです。
イスラエルとパレスチナを隔てる壁に書かれた”風船と少女”はあの壁に書かれたからこそ意味があるわけで、その絵をカッターで切って競売にかけるあたりは日本人的には違和感しかありません。
日本人には西洋的な自然を征服するかのような文化とは異なり、例えば本来不自然である庭に自然の営みを設計し、窓辺から遠くに見える山から林や空までもを庭の風景として取り込む、借景という独特の美意識があります。
バンクシーの作品に通底するテーマは日本の借景のようなものではないのか?
このモヤモヤとした違いとは一体なんなのか?
森田真生、数学する身体 を読む。
数学について書かれた難解な本だと思ってましたが、非常に文学的。
私の持つこれらの問いに対しても数学的ではないたった2文字の日本語で説明してしまいます。
そして、この日本語は借景の元になる概念の言葉で、借景と同様に英語に翻訳することが不可能に近く、それこそが西洋との違いなのではないかと思います。
私たちが通常使っている10進法は指が10本だからこそ意味があるわけで、もっとシンプルな二進法を採用するコンピューターは人間よりも圧倒的な速さで計算を出来るわけです。
10進法を採用した時点で数学と身体は密接な関わりとなり、より深く世界のあらゆる問いに対して論理的、客観的に解決する手法となっていたようです。
東大文系だった著者はカントールの対角線論法という難解な問いに対して興味を持ち、やがてチューリングと岡潔という2人の巨星にたどり着きます。
前半は数学史などに触れ、数学界がチューリングの論文で形式的な極限を迎えたことから、近年の人工知能や身体的認知科学を結びつけて、数学するという行為がある種の人間的な、そして生物学的な建築であると言い切ります。
一方、岡潔が数学者として難解なプロセスの果てに答えを見出したきっかけは山に籠って田畑を耕し、芭蕉の世界に触れた事。
575という極限まで限定された中に無限の宇宙を表現する日本独特のアルゴリズムに西洋数学の限界と思われた答えを見出します。
これが著者の中に確信を生むこととなり、その確信をもとに独特な世界観が広がって行きます。
玉ねぎの皮をむくように本質に近づいていくけれど、本質となる芯はそこに存在するのか、むいても最後まで皮で終わるのではないか、というチューリングの哲学的である種宗教的なアプローチ。
かたや岡潔の本質へのプロセスは身体性を持った種から発芽を経て実がなるように始まる生のルーツを辿る道。
半分以上が岡潔に関する考察に割き、0への探求と0からの探求という抽象的な概念について岡潔はこう書いた。
職業にたとえれば 、数学に最も近いのは百姓だといえる 。種子をまいて育てるのが仕事で 、そのオリジナリティ ーは 「ないもの 」から 「あるもの 」を作ることにある 。数学者は種子を選べば 、あとは大きくなるのを見ているだけのことで 、大きくなる力はむしろ種子のほうにある 。 ( 『岡潔集第一巻 』 「春宵十話 」第十話 「自然に従う 」 )
私はチューリングも岡潔も女性であったらまた違う答えを見つけたのかもしれないと感じます。自分の中に宿る新しい命、命の成長を感じ、ゼロから何かを生み出す行為、それは超自然的な動物的本能とも言える出産という経験は明らかに動物としてのゼロに近づく行為であり、動物がゼロから産み出す行為ではないかと思います。
そして
聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水外で雨が降っている 。禅師は自分を忘れて 、その雨水の音に聞き入っている 。このとき自分というものがないから 、雨は少しも意識にのぼらない 。ところがあるとき 、ふと我に返る 。その刹那 、 「さっきまで自分は雨だった 」と気づく 。これが本当の 「わかる 」という経験である
自分がそのものになる 。なりきっているときは 「無心 」である 。ところがふと 「有心 」に還る 。その瞬間 、さっきまで自分がなりきっていたそのものが 、よくわかる 。 「有心 」のままではわからないが 、 「無心 」のままでもわからない 。 「無心 」から 「有心 」に還る 。その刹那に 「わかる 」 。
これが世界的な頭脳が辿り着いた終着点、答えを見つけて理解するという事を超えて、数学を身体に取り込んだ瞬間でした。
芭蕉の句に得たあらゆる問いに対する答えとして
情緒
という言葉を使って説明しています。
情緒を清め、深める。
これこそが人間の仕事であると。著者はこの情緒という概念を英語でヨーロッパに説明するという試みをしていますが、翻訳は不可能であるとも言っています。
逆に料理界において日本語に翻訳しにくい単語としてはテロワールという概念があります。これは日本の借景に似た概念ですが、それとはまた異なる独特な世界観です。
料理のメインとなる食材が出来上がるまでの気候風土や土地の人々の営み、歴史、知恵などがエスプレッソみたいにギュッと凝縮され絞り出された料理という文化の背景をテロワールという一語で表現します。
料理はゼロから生み出す作業ではなく、自然や農家の手によって生み出された1を3とか10に加工という表現方法で引き上げる行為です。
では、料理人が命の塊である野菜を作り、獣の命を強制的に屠って料理を作る事で見えてくる世界とは一体なんだろう。
これが最近の私のテーマとなっている事です。
白いキャンバスに絵を描くだけでなく、その背景までも料理の一要素と捉える事で表現できる世界観というものが存在するのではないか。
新しい人間観と宇宙観の建設というのもを最晩年のテーマとした岡潔の夢の実現プロセスとして、情緒を清め、深めるためという人間の仕事について数学が必ずしも必要ではなく人間としてよく生きるためにどうするべきかという真理に近づく数学、借景のように自然を取り込んで徹底的に身体化された自己研究としての数学。
それはアート、料理とも言い換えられるのかもしれません。