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2019年01月28日

ヤバイ映画でした。

 

http://chinas-van-goghs-movie.jp

 

汗とタバコと絵の具の臭いでむせ返るような狭い部屋で20年、ハングリー精神剥き出しでゴッホの複製画を描き続け、ゴッホと同化する夢を見て、ゴッホに人生を捧げた主人公。

 

 

いやぁ、ゲバ棒で思いっきり殴られたような衝撃。

久しぶりにアツくなりました。

 

自分のDNAに無いカルチャーに憧れ、模倣していくうちに自己矛盾と迷いが生まれ、どうするべきかを悩む時期がかならず来ます。

 

ゴッホの複製画を書き続け、オリジナルを持たない自分は技術者であって芸術家ではないのか?

そして何より衝撃的な気づきを得たのは、生計を立てるために複製画を描くという事は技術者としてのプロフェッショナルであり、オリジナル作品が無ければ表現者ではない、というごく当たり前な真理に目を背けていた事。

いやぁ、私は傷口に岩塩塗られて電気ドリルでグリグリされ、酢まで浴びました。

 

 

それは日本人の自分が日本でフランス料理をやる意味とは一体何か?

新しい料理などはもはやこの世に存在せず、料理人がやっている事は先人たちの試行錯誤の地図の上でウロウロとするだけの巡礼の旅にに過ぎないのではないか。

という、私の長年の問いと同義です。

加えて、この映画には

芸術表現とは、経済活動と無縁であるべきである、という究極の爆弾を用意しています。

 

料理とはお客さんに食べてもらう事で完成し、評価としてのお金を頂く以上、消費活動サイクルの一部であるという逃れようの無い事実を喉元に突きつけられ、電気ドリルは容赦なくゴリゴリと私の内面を削り取っていきます。

それはコスパ星人とか星の数とか食べログとかいう、もはやどうでもいい客観的な評価を気にしている時点で表現活動ではないという矛盾です。

売れるかどうかで絵を描く時点で画家でない。自分が心の底から旨いと思える料理こそに価値があるのだと。

 

アムステルダムで本物のゴッホ作品を見て絶望し、アルルで実際の夜のカフェテラスを見て主人公の中で何かがガラガラと音を立てて崩れ去り、狂ったようにオリジナルに答えを求め、ゴッホの手法を取り入れつつも自分の油絵を描く主人公。

生計を立てる為の複製画を続けながらも確実に刹那的な芸術家への道筋が見えています。

そこにあるのはサラッと制汗剤の香る草食日本人が忘れてしまった、ベッチョリした汗臭い渇望、ムンムンとした暑苦しい熱狂と剥き出しのハングリー精神。

 

さて、私のような凡人は世田谷通りの天才の足元にも及ばず、料理というキャンバスで何が表現できているのだろう、食材という絵の具で何が描けているのだろう、金ではない何かを料理を通して表現出来ているのだろうか、と落ち込んで犬をナデナデしていじけてしまうような、イケメンをルサンチマンコーナーに追い込む危険度がハンパなく高い映画です。