私は登山が好きです。
色々とスポーツを経験した結果、山に辿り着きました。
圧倒的な自由がそこにあるからです。
審判もいなければ、同調圧力的なルールもない。あえていうなら、生きて帰ってくることくらいでしょう。
告白しますが、私は山に行くと必ず野糞します。お客さんを接待登山した時も地蔵岳のオベリスクをバックに甲斐駒ケ岳の絶壁を見ながら豪快に行為に及びました。
先日の雪山も取り付きまでの林の中、マイナス20度の極寒の中でケツを出して行為に及びました。
こんなに開放的な気分に浸れる事はそうそうないですね。
マナー違反ですかね。
山ではウンコは持って帰る、という不文律があります。本当にそうでしょうか?なぜ山でウンコをしてはいけないのでしょうか?
これがトライアスロンのレース中に民家の軒先で事に及んだら下手したら失格ですし、バイク中ならばずっとダンシングをしなくてはなりません。
それ以前に人間として失格です。
伊沢正名、くう ねる のぐそ を読む。
私も含め、食べるという行為に対して、こだわりや楽しみ、そしてオーガニックや自然栽培、フードロスに至るまで、口に入れる食べ物の話はいつの時代も人々の最大の関心事でしょう。
命を奪い、殺してそれを食べることで人間は生きています。
何を食べるか、という議論は誰にとっても自分ごとであり、非常に盛んに行われますが、その排泄についても自分ごとのはずなのに論じられることは皆無、タブーとしてきました。
あるとすれば、
辛いものを食べた翌日の肛門はベリーホットだったぜ、とか
私の親父曰く、松田聖子はウンコしない、
みたいな感じでしょう。
私がお付き合いしている農家さんの多くに循環型農業という思想があり、野菜といっしょに豚の飼料を作り、豚に与え、豚の排泄物は堆肥にされて畑に戻され、また野菜を作るという食生産サイクルです。
ここに人間が関与しているのは消費だけです。
奪うばかりで何も残しません。残すとすればパックゴミか食べ残しでしょう。
土から生まれる作物を食べている人間は自然に対して何かお返ししているのでしょうか?
それこそがこの本のテーマです。
著者は屎尿処理施設建設の反対運動を見て疑問を持ち、トイレで用をたす事を取りやめ、それ以来全てアウトドアでの脱糞に勤しみます。
屎尿処理にも多大な資源と二酸化炭素の排出があり、わざわざそんなことしなくても、アウトドアで済ませることで全ては完結するのではないか、と。
人目を忍んで穴を掘って行為に及び、紙で拭く。
その一連の行為も慣れた頃、突き詰めて考えた時、果たしてその後私の分身はどうなるのか、野糞する事は生態系への負荷ではないか?
という疑問にぶち当たり、木の枝でマーキングし、日付を残して経過観察するという行動にでます。
数日後に分身を掘り起こし、確認すると、紙だけは分解されずに残り、分身は汚染するどころか色々な微生物や菌や動物によって完全に分解されることを知り、元々菌類の研究が本業だった為、この野糞行為と菌類研究がドッキングし、野糞とはどういうことか、ウンコは忌避すべきことなのか、というある意味でタブーな人糞研究に足を踏み入れることになります。
ウンコにに寄生する虫や菌類、微生物、ミミズ、獣やモグラなどの小動物は、さながら饗宴でも開くかのように待ってました!とばかりに代わる代わるやってきては、人間が分解しきれなかった残された栄養分を吸収し、分解し、新たな命を産んでウンコは土に還ります。
ウンコにたかるハエは腸内細菌の胞子を背中に乗せてばら撒き、そこからキノコが生え、ミミズが糞をムシャムシャと食べて団粒状の糞をすることで土が柔らかくなり、モグラはそのミミズを食べるためにトンネルを掘り空気を地中に送ります。その土からは草が生え、新しい命に生まれ変わります。
しかし、天然素材と思われていたトイレットペーパーはウンコが分解された後もそのままの形で残り続け、最終的に分解されないという結論に達し、それ以来紙を使うことも拒否し、葉っぱに切り替え、使い心地の良い葉っぱの研究という前人未到の領域にも達し、挙句は葉っぱすら使わない、ペットボトルの水のみで肛門洗浄するという画期的なインド式ウォシュレットを編み出して頂点を極めます。
一年という、人間にも大きな意味を持つサイクルは春夏秋冬という自然のサイクルに沿ったものです。著者はその春夏秋冬は物事が死んで腐って再生するサイクルでもあり、自分のウンコを観察することでそうしたダイナミズムを再確認した数少ない体験者ではないか。
いや、世界で唯一かと。
形骸化した学校教育で食物連鎖を学んでも、食べ物が血となり肉となり、最後はウンコになるという当たり前の事は建前論でスルーされます。
一年間の野糞率を算出し、いついかなる時もアウトドアに行為を求める姿は職人技とも思える秀逸さをドンドンと増し、自らを糞土師と呼び、果ては渋谷の繁華街に生える一本の大木の下で誰にも気づかれることなく、それでいて堂々と脱糞と埋設、もはや職人を超えて自然の一部と化す著者のその探究心は常識的に超えてはならないと思われる一線をついに超えます。
1番から105番までの番号を振り、掘り起こしによる形状、色や弾力、臭いの強弱と前日の食事との関連性という経過観察は度肝を抜かれるレポートです。
そして遂にその時はやってきました。
五感で観察するためには味見をせざるを得ないとの判断から一線を超えてしまいます。
分解が進んで完全に土に還ったと思われる現物と周囲の土を味覚から観察しするのです。
その描写は圧巻の一言。
テクスチャーを表現するチャートまで作り、味わい、臭い、粘度、カビの生え方、季節と気温による分解速度の関係性にまで詳細に記録していきます。
一見、常軌を逸しているとも思えなくないその観察への執念には、もはやそれが汚物かどうかという概念を超えて研究対象への純粋な洞察、抱かれる大自然のダイナミズムへの愛、そして念願の自然の一部となったことへの喜びは、多様性だのダイバーシティなどとインテリぶったモノカルチャーバカになった私達現代人を体験したことのない圧倒的な生物多様性の世界へと私達を引きずりこみます。
近代化とは都市化と同義語であり、都市化して自然を切り離し、時に横暴で暴力的な自然の脅威から離れて密集して暮らすことで人間は発展してきました。
剥き出しの自然に対して、動物としてのヒトはあまりにも無力であり、野生動物と比較しても厳冬期に山で一晩何も持たずに夜を越すことすら現代人には無理でしょう。
その意味で人間は確実に退化していると言えます。
発展の過程において摂取、消化、脱糞、分解というサイクルから脱糞と分解を切り離し、汚いものとして小学校のトイレでウンコなんてしようものならウンコマンとあだ名をつけられ、家庭では除菌除菌で体の弱い子供を大量生産しています。
綺麗、汚い、良い、悪い、全ての価値観は好きか嫌いかで出来ており、好きで正しいとされるものは守られ、嫌いで汚いものには蓋をして無かったことにされます。
それがなんであれ、好きなものを追い求める正義の裏にある奪われる側の苦しみは気にされない。
私は料理という表現方法で生きている人間ですが、その素材の源流部について知りたいと狩猟免許をとり、責任を持って殺し、食べることを目指しています。
しかし、そのさらに源流部、もしくは川下とも母なる海への入り口である河口ともいうべきである排泄と微生物、菌との関係性には考えが及ばず、川上を理解したつもりでいたとしても最初の一滴は雨によってもたらされ、水さえあれば繁殖する苔や菌がいる事を忘れています。
最下層の生物だと思われたものは実は私たちの生命の根源であると。
パックされた肉しか見たことがない料理人が増え続ける一方で、断末魔の叫びは蓋をされて無かったことにされ、命を奪って作られた食べ物は汚いからとゴム手袋越しに触ることしか許されず、そのくせ簡単に捨てられて燃やされます。
生きとし生けるものが必ずするウンコについて考えるとき、それは生きることと死ぬ事、地球のダイナミズムを感じるということです。
水に流すには余りにももったいない。
読了後、私は散歩中に恍惚の表情でンーンーと気持ち良さそうに脱糞する愛犬を羨望の眼差しで見てしまいますが、そのウンコを私はビニール袋で回収し、ゴミの日に捨てられて石油をかけられて燃やされます。
命を食べて生きることが権利であるならば、そこに義務や責任が裏にはあるはず。
そして著者は
食は権利、ウンコは責任、野糞は命の返し方
と結んでいます。
究極のエコロジーとは一体何か?
答えは簡単です。
人類が絶滅することです。
私やあなたが死ねば地球にとって負荷が減ります。
しかし、それではあまりにも寂しい。
自分が一体何をどうすれば自然のサイクルの一部、もっと言えばさまざまな環境問題の原因の一部ではなく、解決の一部となるにはどうすべきか、どうあるべきかを問う希代の名著です。
ただ、著者の研究対象である現物の経過観察を撮影した巻末の袋とじはまだ開封する勇気がありません。
こういう袋とじは後にも先にもこれだけだと思います。
希望者があればカレーでも食べながら一緒に開封し、じっくり熟読しましょう。
そうした意味でも圧倒的な稀覯本と言えます。