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2019年01月16日

予め、お知らせしておきます。

先日、本屋で見かけたヤバイ本を2日で一気に読了しました。

 

頭を、いや尻をゲバ棒でひっぱたかれたような衝撃で放心状態です。

 

こんな本は一年に一回出会えるかどうかという圧倒的な本でした。

 

内容が内容なので、感想を述べていいものかどうか迷いましたが、私の場合は内容に対して自分が何を感じたかを出力する事で読書が終了します。

先日書いた通り、このブログはオフィシャルでもなんでもなく、私のマスターベーションの場であり、ブログについてお金を頂いているわけでもない、そしてフェイスブックのように勝手にドンブラコと流れて視界に入るものでもありません。

 

 

なので、真正面から書くことにしました。

 

しかしながら、あまりにも刺激の強い内容のため、私もかなりの覚悟が必要で、読む人にも相当な覚悟が必要です。

なので、記事をアップする前に予告します。

 

絶対に読まないでください。

 

という題名でアップしますので、開いてこの題名が出てきたら読まずにページを閉じるか、新しい記事がアップされるまでの間はブログに立ち寄らないで下さい。

食べ物屋としてありえない!

と、わけのわからないクレームが来るので、フェイスブック等でリンクをシェアするのもやめて下さい。

 

そう、食べ物屋としては致命的な本です。

しかし、私は最も重要なことではないか、と感じたので書きます。

 

巻末の紹介文だけ載せておきますね。

これを見て本当に興味があれば記事を読むなり、本を買うなりしてください。

店にも置いておきますので、必ず食後にほかのお客さんの目に触れないように読んでください。

 

旨い肉へのアプローチ

浜松で小料理屋を営む片桐さんという方が居ます。

 

その方は罠師でもあり、一般的な罠猟とは少し異なる止めをします。

 

一般的には獣道に仕掛けた罠にかかった獣はその場でさし止め(トドメ)をされて解体、もしくは内臓を抜かれて山から下ろされます。

 

しかし、この片桐さんは罠にかかった獣には、さし止めせずにガムテープで目の周りを覆って視界を奪い、大人しくさせて生け捕りし、山から下ろして自宅の解体場で止めるのです。

整った設備ですぐに血抜きを行い、肉を冷やし、解体に入ります。

完全に血抜きされた肉は全く血が滲むことなく、臭みが回ることなく、鍋用のイノシシのスライスを並べた皿には一滴の血もない完璧な仕上がりでした。

骨からはスープをとり、出し汁として使われてます。

 

 

フランス料理的思想のもとでは、暴れて興奮してアドレナリンが出ると肉質が落ちるため、知らないうちに一発で即死させる事が最上とされ

すぐに腹を割いて内臓を出し、雪を詰めて体温を下げます。

そして、ある程度の熟成期間を経て解体、精肉、料理に入ります。

罠という手法はあまり聞きません。かかった後に逃げようとして暴れる事がアドレナリン放出と考えるからでしょう。

西洋思想のハンティングの文化が先にあって、それを食べるという事は副産物な考え方だと思われます。

貴族の遊びとしてのハンティングがあり、その獲物をお抱え料理人が料理するという図式です。

今では考えられませんが、フランス料理の古典書には鶴の調理法や元の形に戻す盛り付け方まで載っています。

それが良いとか悪いとかではなく、鯨を食べる日本と、犬を食べる朝鮮半島、ウサギを食べるヨーロッパ、これは単純な食文化の違いですね。

 

 

一方で罠師の片桐さんは魚の活け締のアプローチを踏み、新鮮さと不浄とされる血液を完全に抜く手法です。

そして死後硬直が解けた瞬間から料理に入ります。

 

 

今回、ウチで仕入れた鹿児島の真鴨は網捕りで銃痕はなく綺麗で、窒息のみで放血もしていないため体内に血が入ったままであり、西洋料理店向けの鴨と言えますが、血が中に入っている為、熟成はしない方が良いでしょう。

 

フランスからの輸入品には必ず銃痕があり、当たりどころが悪ければ焼くことは出来ずミンチになる運命です。

 

 

 

サザエさん用に焼いた鴨から外した骨の端肉を食べてみましたが、悶絶するほどの旨さでした。

個体の大きさこそ、フランスには遠く及びませんが、赤身ジビエの埃っぽい独特な臭みはなく、それでいて血の味が豊富で濃厚な鴨香りが溢れています。

 

やっと最近、ジビエについて理解出来てきたような気がします。

あと4羽ほどおりますのでよろしければ是非。

今期の真鴨はこれで終わりだと思います。

 

あとは秋田からくる野ウサギでジビエシーズンが締めくくられます。

 

 

 

片桐さんの話は正月のテレビでみましたが、番組の最後に八百万の神である自然への感謝として、余さず料理して美味しく食べる事以外にない、と話されていたことを思い出します。