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2019年01月12日

それにしても

ここまで丁寧に写真付きでプロセスを紹介した本なんてあっただろうか。

時代が進めば全て解説テロップ付きの動画になるのかもしれないが、本には本の良さがあるのだろうと思う。

 

例えばラルース・ガストロノミックではザックリした分量とザックリした作り方しか書いてない。プロセスも完成写真もない。

コルドンブルーの教授だったアンリ・ポール・ペラプラに至っては分量とつくり方が同時進行である。

 

もし、カツ丼をペラプラ的に説明すると、

カツ用の豚肉150gに軽く塩振って小麦粉、溶き卵、パン粉をつけて揚げる。必要なら筋を切っておく。

玉ねぎをスライスして酒と醤油と砂糖で煮て適当に切った先程のカツを入れて少々煮込み、溶き卵を入れて蓋をして半熟にする。溶き卵といっても完全に溶き卵にはせず、黄身と白身が入り混じったくらいにとどめたもの。

 

以上。

これだけ。

まじで。

醤油も砂糖も適当であり、玉ねぎをどの段階まで煮込むかも不明。分量と呼ばれるものは豚肉しかない。

半熟にするための火加減にも言及されず、作る人間の想像力とセンスに丸投げである。

カツ丼の完成品を食べたことがなければ、カツ丼が一体どんな料理なのかわかるはずもなく、もはや再現性は限りなくゼロに近い。

 

現代ならば完全にクレーム対象。

そういう意味で料理人は確実に進化ではなく、退化しているといえる。

退化というより、失敗を恐れて試行錯誤をしなくなったような気がする。

私は失敗して殴られ蹴られ、頭というより体で覚えた世代の最期の生き残りなので、言ってることがダサいですね、古いですね、と言われても仕方ない。

 

 

しかしながら、料理とは一体何かを考えるには、そして一定の基礎を積んだ人間にはラルースやペラプラで充分なのかもしれないぞ、と思うこともあり、今回の本がビギナー料理人には良い本になるのではないかと思いつつも、あまりにも詳細に説明しすぎており、枠にカッチリハマってしまうのではないかと危惧していたりする。

想定読者としては、ウチの20代の若いスタッフにいちいち説明するのが面倒だから、

俺の本読んで勉強しておけ!

と、共通認識してもらえる本、という位置付け。

実際にシャルキュトリー やデリは私の本を読ませている。

 

果たしてこれで良いのかどうかは不明。

しかし、身近なスタッフにとって使いやすい本ならば、喜んでくれる人も少なくないはずだと思いたい。

チラ見せ

チラリズム

なんと甘美な響きだろう。

日本人のチラリズムに対する意識は世界的に見ても独特の世界観である。

いや、日本男児的なフェティシズムなのかもしれない。

パリのレストランでは、夏になればほとんど裸みたいな格好で食事している若いおねーちゃんもあるし、そもそもカフェのサービスのオネーサンもビーチク見えても全然気にしないくらい胸元開いたコスチュームでサービスをしているし、ニースから車で15分くらい行ったビーチにはビーチク丸出しで寝込んでいるトドみたいなオバさんがウジャウジャいる。

こういう所に高尚なチラリズムの哲学はなく、モロ見せ、もはやモロダシズムである。

日本人は元来、着物のウナジや裾から覗くふくらはぎにエロスを感じて来たらしいですね。

素晴らしい価値観。

アレックス・カーには、是非ともこの辺りも書いて頂きたい。

現代においての哲学的チラリズムはある特定の部位や具の出具合だけでなく、あらゆる恥部に適用され、綺麗なおねーさんの綺麗な鼻からチョロリと伸びる綺麗な一本の鼻毛だったり、口元に残ったケチャップだったり、耳元に残る後れ毛と多岐にわたる油断の痕跡なのです。

 

嫌いじゃないです、そういうところ。

むしろ大好き。

このテーマについて本が一冊書けるくらい、私はチラリズム原理主義者なのである。

 

 

原稿が上がってきました。

 

 

フランス料理に興味がなければ全くもってピンと来ない内容の本です。

しかし、私にとってはこれまでの私の歴史であり、試行錯誤の結果であり、失敗の痕跡であり、言うなれば私の恥部、例えるなら黒光りする海綿体を惜しげもなく

どうですか!

こんなに大人になりましたよ!

と、モロ出しした作品なのです。

 

ページ数は現段階で233。

これにキモである哲学の話が入るので250ページ超えは確実、300ページに迫る勢い。

 

デジタル全盛のこの時代にこのボリュームで紙の本で出せるという奇跡に感謝。