2018年12月11日
いやはや凄い本だった…
こんな夜更けにバナナかよ
を読む。
年末にこの原作の映画が公開されるらしいです。
昨日、ボヘミアンラプソディの劇場で予告編をやってました。大泉洋主演で28日からだそうです。
映画を観るまえに原作を読めたのは本当に良かった。
いやぁ、とてつもない本でした。
一回では書ききれません。
筋ジストロフィーという、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく難病ながら、ボランティアに対して自分のしたい事を抑える事なく遠慮する事なくしてもらう事で摩擦を生みながらも懸命に生きる鹿野さんを追いかけたルポルタージュ。
障害者を介助するというを与えるものと与えられるもの、という図式で介助やボランティアという行為を考えてしまうと、私たちが普段抱く、ラーメン食べたい、ウンコしたい、チャンネル変えたい、エロビデオ見たい、という何気ない欲望すらもワガママと感じてしまうこともあるだろう。
夜中の2時にバナナを食べたいとボランティアを叩き起こし、食べさせて貰ったあと、もう一本!と、指示された瞬間、あるボランティアの学生はそれをわがままと感じる事なく、怒るどころか、大事なことを悟る。
スウェーデンから始まった、ノーマライゼーションという、持つものと持たないものが助け合い、平等を目指す福祉的な視点からの社会思想。
みんなが普通の生活が出来るように、と。
ノーマル=普通とは一体なんだろうか。
現代生活における本質的なフツウというものを定義できる人はいるのだろうか。
障害者の生活を 「フツウ 」にするというが 、かたや健常者にとっては 、今や 「フツウに生きること 」の価値が揺らぎ 、その意味が見失われている時代でもある 。フツウの人が問題を抱え 、フツウの人が常軌を逸し 、フツウの人が最も危ないなどともいわれる今日 、この言葉の意味するところはいったい何なのか 。 「フツウ 」とは 、いったいどうあるべきなのか 。 「ノ ーマライゼ ーション 」とは 、さまざまな問いを内包する深い言葉だと思う 。
フツウの障害、フツウの介助、と呼ばれる日は来るのだろうか。
普通という言葉が現代社会において、自立だとするならば、自立の意味も問い直さなくてはならない。
鹿野さんのように24時間、365日介助が必要な場合、誰かの力を借りなければ生きていけない。裏返せばボランティアに生かされているということだ。
それが自立していない事ととするならば、誰も手も借りずに生きている人とは存在するのだろうか。
ここに経済的な自立という事はほとんど意味をなさない。
障害を手足の欠損や難病自体ではなく、広義で考えると、多様な人々が生きる上で妨げる物や社会的障壁であるはずである。
鹿野さんの生き方からは、自立とは人生を主体的に選択して生きる事であると気づかされる。