2018年10月27日
私の好きな話
もうだいぶ以前に読んだ灰谷健次郎の
だれもしらないって言う本で、
生まれつき体の不自由な女の子がいて、小学校に歩いて通うのにすごく時間が掛かっていた。
普通の子は10分くらいで学校に着き校庭で遊んでいるところを、その子は毎日ノロノロギクシャク歩いて30分以上掛かって通っていた。
ある日、先生が生徒たちに家から学校までの事柄を作文に書かせた。
回収した作文を読んで先生はびっくりした。
ほとんどの子が通学の間の出来事が通り一遍の情報なのに対して、体が不自由なその子が見て感じている情報がとてつもなく多く豊かなことに。
その子が通学する姿は外から見るとノロノロギクシャク、歩くのに精一杯に見えるのだけれど、実は彼女は毎朝のその30分の道すがら、雑草に触れ挨拶をし、庭先のお花と話しをし、ミミズや蝶々や小鳥と会話をし、日々の街や自然の変化をつぶさに丁寧に見つめ感じていた。
それは一見多くの事をしてるように映る走って登校し校庭で遊んでいる子には見えてないことだった。
いったい沢山の情報に触れ感じるってどういう事だろう。
人生で大切な事は、魂が何かに触れ納得することだ。
それは、どれだけ遠くまで行けたか、どれだけ長く生きたか、どれだけ早くたどり着けたか、どれだけ多くを手に入れたか、どれだけ欲望を実現できたかという事とは違う。
人の生には限界がある。健康な人もいれば病気がちの人もいる。身体が不自由な人もいれば知的障害を持ってる人もいる。100年生きる人もいれば5年で亡くなる人もいる。
でも僕は、宇宙は全ての人に平等に、この宇宙の成り立ちや魂や命の真実に触れるチャンスや材料を与えてくれていると思っている。
どんなに短い距離もそこを押し広げれば途方もない距離と情報が現れるし、どんなに短い時間でもそこを押し広げれば永遠とも思える時間が横たわっている。
結局、何時何処にいようが僕らは常にこの宇宙の膨大な情報と共にあり、大切な事はたった今、目の前に横たわる宇宙や命や魂の情報にアクセスできてるかということだ。
遠くまで旅に出れないことを嘆くこともなければ、沢山の経験が出来ないことを悔やむ必要もない。
僕らは、常にどんな状況の時も宇宙が贈るメッセージに囲まれている。
人生の豊かさや安堵は、どれだけ多くをやれたかでなく、魂が何にアクセスし喜び納得したかにある。