ウチの親父。
で、検査の結果は良性。
めでたし、めでたし。
もし君の余命は一年だよ、
って言われたら明日から何しますか?
人はいつか必ず死にます。
死を意識することで本質が見えて来ます。
先日の続き。
私も皆さんも病気なんです。
その病気とは。
身体的な第六感の欠如です。
私の言う第六感とは、自然や動物本来の人間としての本能を感じる感覚です。
何か見えないないものに対する畏れの肌感覚と言っても良いでしょう。
生の隣に死を意識すると言うことです。
自然という横暴で理不尽な存在を遠ざけ、昨日まで生きていた豚や牛は真空パックの工業製品化する事で死という不浄なものを遠ざけ見えないように蓋をし、都市に固まって暮らすことで自然災害などの理不尽な死に怯えることないかわりに、自然に対する畏怖の念を凍傷で鼻がもげるように欠損し、あたかもなかったように日々を暮らしている事が原因ではないかと。
本来の自然とは横暴で理不尽で予測不能、最悪の事態の前にやれる事はただ祈ることしか出来ません。
一番身近な存在でいうと、身体というものは自然そのもので、風邪を引いたり、太いウンコしたり、疲れて勃起したり、追い込みすぎて心臓がバクバクしたり、大腸にポリープが出来たりします。
感情とは違って、自然的肉体的なものは自分でコントロール出来ません。
その欠損した6番目の身体感覚を呼び覚ますために駒沢公園を走って心拍数を上げてハアハアと身体に刺激を入れることで生感覚を得る。
二足歩行動物である人間の最も原始的な行為である、走る、という行為によってそれを感じているのです。
しかしそれは日に日に鋭敏になる事はなく、逆に鈍化していくため、ただクルクルしても足りなくなり、エスカレートすると休みの日に自転車で200キロ走らければ得られなくなり、落ちたら死ぬこと確実な雪の壁に取り付いてプルプル震えるふくらはぎに、そして荒ぶる台風の波に向かう時に逆立つ尻の毛を感じて生きていると感じるのです。
現代人は死というものを遠ざけることで生を意識できなくなってしまった。
そうでもしないと生きていると感じなくなってしまった。
人口と産業が減っていく地方が行き詰まりを感じているのと同じく、都市生活者もある意味で行き詰まりを感じているのではないでしょうか。
わたし達は植物や動物の死の上に私たちの生が成り立っている事を意識しているのだろうか。
私たちの食べ物は誰かが作ったものです。
言い換えれば、日々の食事の素材をアウトソーシングして金で買っているだけです。
今日のランチで食べたブロッコリーを誰が作ったのか、知ってるいる人はほとんどいないのではないでしょうか。
料理を作っているわたし達料理人も同じです。
生産者に意識が向いていないからです。
食べ物は自然の恵みであり、誰かが育てたものあるという事を感じる第六感が欠損してしまっているのです。
西洋的な単一新教崇拝にはない、日本人特有の自然崇拝思想の欠損とも言えるでしょう。
田舎によくあるバーター的なやり取りはなく、隣家の顔も知らないのっぺらぼうの都市社会に慣れ、更に金が介在することで、その苦労や途方も無い時間は見えにくくなります。
フードロスも最終的には消費者がその分まで上乗せされて負担する事でなんとか回っています。
誰が作ったか知らないから、わたし達は簡単に捨ててしまうのです。
消費者意識とはそういうことではないでしょうか。
この大量消費大量廃棄社会の行き着く先に何が待っているのでしょうか。
この先の話はまた次回。