2018年09月10日
映画LUCKYを観る
現実とはモノであり、全ては無である。
人間が何のために生きるのか
それは単純に良い人生を希求する、という事に収斂され、死というものが最大の恐怖で、最強のリスクであるのは、それらを全て奪うからであると。
では良い人生とはなんだろう
それぞれの価値観においてそれは決定され、カネ、オンナ、権力、健康、ブランドの服、フェラーリ、子の発育…様々な形をしていながらも本質的に求めているもの、良い人生。
主人公ラッキーは言い訳として病気なり事故なり、それなりの理由があるならばポックリ死んでもいいも思っていたのではないだろうか。
下手に健康なものだから、差し迫った死の気配はなかったのに、ある日突然愛すべき穏やかな日課が途切れる。
何気ない普段の生活に落ちているさまざまな死の欠片を意識して猛烈に怖り、ペットショップで爬虫類の餌として売っていたコオロギを助け、脱走した亀に全財産を遺すという友人の遺言状を作る弁護士にキレたりなどする。
沖縄戦で降伏よりも笑顔で自決を選んだ日本人の死に様を聞き、マリアッチに合わせてスペイン語で唄い、そして微笑んでエンディングを迎えるラッキー。
リアリズムとはモノである。そして無である。
言い換えれば、形あるものは皆壊れ、死んで消えて無くなる。
しかし、孤独とひとりは違うのだ、さあ笑おうではないか。