2017年04月08日
まだ時間があるので先日の映画の話。
やっと自分の中でストンと落ちる感触がありまして、ここに書評と映画評を書かせていただきます。
沈黙~サイレンス~
スコセッシ監督がここまで小説に忠実な映画にするとは思ってもいませんでした。
~日本という沼ではキリスト教は育たずに根が腐ってしまうのだ~
裏切りを重ね、踏み絵をしてしまうキチジローのことを誰が責められるでしょうか。
想像を絶する拷問に耐えながら殉教していく信者に対し、イスラム原理主義に似た危うさを感じえませんでした。
なぜこのようになってしまうのだろうか。
それは日本人独特の宗教観にあるように思います。
わたしは寺の孫として育った関係で普通の人よりも宗教心が強いのかもしれません。
しかし無宗教を自認する方も最近多いですが、果たして本当にそうなのでしょうか。
日本人にとっての宗教観とは、キリスト教のような偶像崇拝や経典ではなく、それは山の神、海の神、先祖であり、お天道様であり広い意味での自然崇拝なのです。
例えば噴火を繰り返す富士山の怒りを静めるために周りには神社が数多くあり、山そのものが信仰の対象であり神なのです。
神とは感謝の対象であり、いいことがあればおかげ様、悪いことがあれば因果応報であり、お天道様の下では悪いことはできぬという、内なる神に対する信仰心は日本人であればだれでも持ち合わせる道徳心であると思います。
ギリギリの生活を強いられる中、キリスト教に救いを求め、隠れキリシタンとして激しい拷問に耐える信者に対して神が沈黙するのはなぜなのか、神は沈黙はしていないのです。
他力本願ではなく、それは自力本願なのであり、究極の選択を迫られるクライマックスで語り掛けるのはキリストの声ではなく、道徳心や良心の呵責という誰もが持ち合わせる人間本来の姿、それが内なる神だと思うのです。
フランクルも書いていますが、人間が極限まで追い詰められ、そしてすぐに自分も殺されるとわかっていても、腹を空かした仲間になけなしのパンを譲る人がいたということが本質的な人間の優しさの姿ではないかと思うのです。
そこにキリスト教もユダヤ教も仏教も神道もないのです。
全編通して音楽は一切なし。エンドロールも波の音だけ。
果てしなく重苦しい映画でありますが必見です。
この小説の舞台となった長崎五島に行くたびに、キチジローとガルぺ、ロドリゴ、フェレイラと名もなき隠れキリシタンの殉教者に思いを馳せるのです。